←高杜神社拝殿
高杜神社は高井野(現在の高山村高井)に突き出ている”勝山”の麓に位置し、高杜神社の周辺には縄文時代や弥生時代の遺跡や古墳時代の古墳などがあり、
古代から高井野の中心となってきました。

↑上空から見た高井野の中心(昭和50年)
空中写真は「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」を元に作成

↑灰野峠から見た勝山と高杜神社の杉並木
←大石
古代人は”勝山”を祖霊の座す山と考え、頂上にある『大石』を神として信仰していたと考えらます。

やがて仏教が渡来して社殿が建てられるようになると、その影響を受けて”勝山”の麓に遥拝所を立てて山を拝むようになり、それが高杜神社になりました。
いいつたえでは、高杜神社の社殿が初めて建てられたのは平安時代初期の大同元年(806年)だとされ、久保の勝山さんの本家筋が高杜神社を招聘したのだとも伝えられています。
抑々高杜神は健御名方神の御子に坐して、我高位縣総領の神として高井に坐せり、始め天孫降臨に当りて健御名方神は日本を皇孫に奉り賜いて、親ら洲羽に来り止り給い、
国中の蝦夷を征服し、科野総領の神となり給い、国を八つに分ち縣毎に御神子を配置し賜えり、
八縣とは内縣(諏訪)外縣(上下伊那)大縣(南北佐久)小縣(小縣)南縣(東筑摩)北縣(更級・埴科)高位縣(上下高井)水内縣(上下水内)これなり。
而して高位縣神として高杜神統治の任に当り給えり、高位縣介は同じ健御名方神の御子八杵命、小菅に坐して其任に当り給えるが如し、今下高井郡小菅に八所権現と云う社あり、これも此神を祭れるなるべし。
『上高井歴史』より
高杜神社は「延喜式」の「神名帳」に名前が記されている式内で、官社とされていました。
高井郡では高杜神社のほか、墨坂神社(須坂市)、越智神社(須坂市幸高、中野市越)、小内神社(小布施町都住)、笠原神社(中野市笠原)、小坂神社(須坂市井上)の6社が式内とされています。
えんぎしき【延喜式】:
弘仁式・貞観式の後を承けて編修された律令の施行細則。平安初期の禁中の年中儀式や制度などの事を漢文で記す。50巻。 905年(延喜5年)藤原時平・紀長谷雄・三善清行らが勅を受け、時平の没後、忠平が業を継ぎ、927年(延長5年)撰進。 967年(康保4年)施行。
しきない【式内】:
延喜式の神名帳に記載されている神社。式内社。式社。
かんしゃ【官社】:
神祇官の神名帳に記載され、祈年祭(としごいのまつり)の幣帛を受けた神社。官帳社。式内社。広辞苑
鎌倉時代には北条氏が信濃守護となり、一宮諏訪社(諏訪大社)を支配するようになったことから、信濃各地の武士が北条氏にあやかって諏訪社を勧請するようになりました。
高杜神社もその影響で祭神が多加毛利命(たかもりのみこと)と健御名方富命(たけみなかたとみのみこと)になったと考えられています。
戦国時代、上杉景勝の家臣として海津城代を勤めた領主須田満親・満昌親子は、天正17年(1589年)に高杜神社に大鷹を献上しています。
このときの記録では高井野大明神と記されています。
明治8年(1875年)に高杜神社の神主が、次のように県に報告しています。
「古老の伝によると、高杜神社祭神の高杜大神は、この地の濫觴(らんしょう:始めること)の太祖(祖先)である。
そのため、その神徳を仰ぎ奉りて郡名を高位と称したところ、郷里はおいおい繁盛して一郡になったという。
また、諏訪社旧記にはつぎのようにある。多加毛利命は健御名方富命の子供で、高位県を守り給う神である。
だから、高位県大明神と称している。」
この伝承によると、諏訪大社の祭神である健御名方富命とその子供の多加毛利命が高杜神社の祭神ということになります。
←勝山忠三神官像と宝物
高杜神社の専任神主は代々勝山家が務めてきました。
明治8年(1875年)勝山神主は長野県へ「勝山家は太古から高杜神社の神官で、諏訪祝(ほうり)に随従していたが、元和8年(1622年)勝山忠吉の代から吉田家の門人になった」と報告しています。
中世に武士が勢力を持つと延喜式の神社制度は崩れてしまいましたが、江戸の中期以降になって国学が盛んになるにつれ、日本固有の神道が見直され、旧式内社だと称する神社があちこちに出てきました。
神名帳に記載されている社名に対して複数の神社が式内社を争う場合があり、高杜神社も高井野村と赤岩村(中野市)とで争われました。
寛延3年(1750年)、神社界の宗家・吉田家が全国の神社改めを行い、高井野村は吉田家に社号を申請し、「式内社高杜神社」の社号を認可されています。
文政年間に、京都吉田家が延喜式内の神社取調べを行い、高杜神社の勝山神主が文政7年(1824年)に社号出願(再確認)をしています。
この年、同じ高井郡赤岩村の高杜神社が社号の認定を出願しましたが、こちらは認められませんでした。
赤岩村はこれを不満とし、再度社号授与を願い出ましたが、結局、翌年、裏山の高社山の「高社」を加えて「高社高杜神社」として認可されています。
安政2年(1855年)、赤岩村の高社高杜神社の神祭りの際に、氏子が寄進した「高杜神社」という幟旗を立ててしまいました。
安政3年(1856年)には京都吉田家から赤岩村へ授与した社号に違反するから至急始末書を提出するよう通達が出され、翌年には、高井・水内・更級の神主が赤岩村の社号違反を訴え出た結果、
赤岩村は授与された社号をかたく守り、幟旗は作り変えることになりました。
慶応4年(1868年)、維新政府は「神仏分離令」を公布し、明治4年(1871年)に社格制度を制定しました。
神社の格を大きく官社と諸社に分類し、官社には官幣の大中小社、国幣の大中小社があり、また諸社には府社、県社および郷社が指定されています。
高杜神社は明治6年(1873年)に高井村の郷社に指定されましたが、赤岩の高社高杜神社は格上の県社に指定されています。
これは、高杜神社の宮元が、明治3年(1870年)12月に発生した中野騒動の発生地であったことが影響したものと考えられています。
大正8年(1919年)に県社昇格願いを県に提出したが認められませんでした。

高杜神社入り口の鳥居は、嘉永5年(1852年)に三代目亀原和太四郎嘉博によって再建されました。
幅は1丈3尺、高さが1丈8尺8寸で、このときの記録によると、収入は個人の寄進10両、村の負担10両、神社林の木材売却代約13両でした。
←杉並木
元和5年(1619年)、安芸から高井野村に移封された福島正則が高杜神社を崇敬して参道に杉を植樹し、
さらに500メートルほど離れた居館まで延長しようとしたといわれています。
←神楽殿
境内入り口にある茅葺屋根の神楽殿は、天明元年(1781年)に再建されました。
間口6間半、奥行きは3間半で、このときの名主は太田三郎左衛門、普請世話人は久保組の長兵衛と紫組の次郎衛門、大工は牧久衛門でした。
神楽殿の屋根は明治27年(1894年)に118円をかけて葺き替えを行い、大正13年(1924年)にも葺き替えをおこなっています。
昭和43年(1968年)には茅葺の上をトタンで覆って耐久性を増しています。




↑拝殿と彫刻
拝殿は天明3年(1783年)に赤和組の初代亀原和太四郎嘉重(1744年〜1818年)の手によって再建されました。
このときの名主は梨本弥五衛門で、資材と資金35両を紫の久保田重右衛門が寄進しています。
拝殿の瓦屋根が老朽化して雨漏りの恐れが出てきたことから、平成21年に氏子の寄付と村の助成を得て瓦の葺き替えが行われました。
←本殿
拝殿の中に安置されている本殿は、嘉永元年(1848年)に棟梁・三代目亀原和太四郎嘉博(1799年〜1871年)によって再建されています。
本殿の大きさは間口が2間、約3.6m、奥行きが約2m、高さ約2mです。

随身像は、寛政年間(1789年〜1800年)に初代・亀原和太四郎嘉重が彫刻し、天保15年(1844年)に三代目亀原和太四郎嘉博が修理したと伝えられています。
門守神(かどもりのかみ)、看督長(かどのおさ)ともいい、俗に矢大臣、左大臣ともいわれます。
狛犬は嘉永元年(1848年)に三代目・亀原和太四郎嘉博が彫工し、上赤和組の篠原要右衛門が寄進しています。
←面
←酒器
←社務所
会議や神事の後の直会が行われます。
←秋葉社
拝殿の右奥に建てられています。
寛政8年(1796年)には秋葉大権現という神号であったものが、明治の神仏分離令によって秋葉宮と改名したようです。
←神明社
拝殿の左奥に建てられていて、祭神は天照大神です。
元和8年(1622年)に吉田家から請けた勝山神官家個人の霊社と考えられています。
←石祠
拝殿の裏に並んでいます。
所縁は不明ですが、江戸時代から立てられていたようです。
高杜神社本殿は、軒破風付きの建物で上屋の中に建つ。
建築年代は棟札から嘉永元年とわかる。
大工棟梁は亀原和太四郎嘉博。
彫刻をみると、向拝木葉鼻は振向きの龍、向拝紅梁の中央に波、亀、軒唐破風内部に麒麟、兎の毛通しに鳳凰、脇障子は松・鶴、牡丹・唐獅子となっている。
社殿の特徴は、正面の扉を両開きの扉にしないで、4枚一連の両折り戸としていることや向拝木鼻を振向きの龍としている点も独創的である。
本社は入母屋造り、浅瓦葺きの建物で1間の向拝を付けている。妻入りなので本殿上屋部分とは棟を直行させて橦木造りとなっている。
天明2年の再建とみられ、時代の特色をよく示している建造物といえる。
いずれも建築物として意匠的に優秀であり、文化財としての価値が高い。
←高井鴻山揮毫の大幟
明治12年(1879年)、小布施在住の高井健(鴻山)(1806年〜1883年)の揮毫による大幟一対を久保組が作成し、10月のお祭りに立てました。
古老によると、総工費は46円10銭で、その4割が戸数別、残りの6割は資産別で徴収されました。
当時の戸数は76戸で、1戸あたり23銭6厘となり、最高のお宅は2円48銭5厘、平均で59銭1厘でした。
明治以前にはこうした幟旗はなく、伝統のある式内社の社格を無視されたことと、中野騒動で多数の殉難者を出したことが、この幟旗を作成する原動力になったのではないかと想像されます。
上に戻る高杜神社の祭事は、農作物の豊穣と家内安全への願いが中心になっています。
記念撮影式内高社(杜)神社と称する神社には高社高杜神社(高社山支峯頂上、中野市赤岩)等もあるが、
高山村高井の高杜神社(祭神も健御名方命・高毛利神)もこの神社であると称している。
「式内神社考」(吉沢好謙著)には
「高井の北部、飯山城の東南に突出の山あり。頂に神社います。土人高やしろと云。この神社なるべし」
と説明している。
文政7年、高社高杜神社と高井村高杜神社とが、吉田家へ高杜神社の社号を競願し、吉田家は高社がわの願を却下して、高井村がわに高杜神社の社号を允許した。
しかし、これは江戸時代の勢力関係によったものであり、どちらが由緒正しいかということを示すものではない。
『長野県上高井誌 歴史編』より
赤和石尊神社の御神体である石棒は、縄文晩期か弥生時代に作られたもので、古い形の原始信仰だと推測される。
従って、古赤和地籍にはこの頃から人が住んだMのと考えられる。
この古赤和の奥を登頂した所に高頭(高遠)の山がある。
その稜線では特別に目立つこの山が、高杜神社の奥院であると言い伝えられていて、後世になり、そこに祠が造られた。
信仰の対象として神社が建てられるようになるのは、蘇我王朝の八世紀以後のことであり、それより前の時代は、天・太陽・月・山岳・岩・水というような、自然や生殖が神として人々の心を捉えていたのである。
高頭山が畏敬の山として信仰の対象となり高杜神社の奥院とされたことも、古赤和の住居跡と並べて見て不思議ではない。
作家の金達寿氏が、高は高麗に通じ、もり(杜)は朝鮮語の頭である、と指摘している。
五世紀頃かそれ以前に、大陸・高句麗より渡来した移民帰化人と、高杜神社が現在地に建てられる前の高頭山とを、その時代の人達の立場になって考察する必要がある。
高杜神社の祭神は建御名方命と高毛利命である。
建御名方命は古事記にあって、戦いに負けて出雲から逃げてきたという諏訪明神の主神である。
高毛利命は古事記には出ていないが、建御名方命の第八子だと高杜神社の縁起にある。
それはつくりごとだという人もあるが、神様だからいいではないかといえば、確かにその通りである。
しかし高杜神社の本当の歴史を調べるには、つくりごとばかりでは困るのである。
高杜神社という名がはじめからあるとすれば、祭神は高毛利命だけでいいはずであるが、後になって(鎌倉時代以後ともいわれている)諏訪明神をどこでも祀るようになったとき、高毛利命その子供とした方が、
神様の格付が良くなるように思われて、そのように作ってしまったという説もある。
もしそうであれば、はじめの土俗神のままでおいた方が、今になれば歴史上の価値も高いし、有難さもあって惜しい気がする。
高毛利命の子孫は代々県主(あがたぬし)になったと高杜神社縁起にあるが、大化元年(645年)に大化の改新があり、
それまでの県主を郡司に改めたとなっていて、額田王(推古)が王位に就く(592年)以前のことは考古学の部で歴史でないことになってりうので、歴史上の県主は50年位である。
またこの付近を「県」といったかどうか、県主がいたかどうか、ということについては、伝承も記録もはっきりしたものがないのである。
承平5年(935年)の和名抄に高井郡(上下高井全部)には、穂科、稲向(井上)、小内(安源寺)、日野、神戸(瑞穂)の5郷があるだけで、高井野はのっていない。
高杜神社は延喜式内社ということになっている。
式内社の高井六社とは、墨坂神・越智神・小内神・笠原神・小坂神・高杜神であって、高井とは今の上下高井郡全体のことを指している。
(延喜年間に高井村という名はなかった。)
中野市赤岩高やしろの高杜神社と本家争いをして、延喜式神名帳にのっている高杜神は高井野の方にして頂きたいと願いを出して、
神官の位などをくれる神道取締の吉田家から正式にお墨付きをもらったのは、江戸時代中期の寛延元年(1750年)で、延喜式(927年)ができてから823年も経ってのことであった。
ということは、それまでどちらの村も延喜式なぞどうでも良かったのである。
別にたしかな証拠があったわけでもなかったが、大村の力(高井野村は北信一番の大村であった)と上納金をたくさん吉田家に上げたことによって、高やしろに勝ってお墨付きをもらったのだとという歴史家が多い。
そのことは明治政府になってから神様の格付けをするにあたり、種々調査の結果、今度は逆になり、高やしろの方が県社になり、高井野の方はその下の位の郷社に決められてしまったからである。
神様の歴史は、神官の書いた由緒書や口伝は辻褄の合わない所があったりして、当てにならないものである。
神官としては、高杜神社を諏訪明神の出店にした方が都合がよかったかもしれないが、その出店にする前に、土地の人が作った神様(土俗神)を片付けてしまわないで、残しておいてもらった方が、村の歴史を調べるにはよほど役立つし、有難かった。
高村庄五郎「高杜神社考」より