高井野の歴史>村の伝説と歴史
公民館発行の『公民館報』などに掲載された村内各地区の紹介記事をまとめました。
『館報たかやま(高山村公民館報)』及び合併前の『高井村公民館報』『山田村公民館報』から村の成り立ちや言い伝えとともに、昭和20〜30年代の暮らし向きを振り返ることができます。
『高井村公民館報』第33号「村の歩み」(昭和28年6月)より
上:城山公園
中:公民館分館
下:城山からの展望
山一面に咲き誇ったつつじに埋まった城山公園に青葉がそよぎ蛙のなく声が夕もやの中にきこえる。
春高楼の花の宴
めぐる盃影さして
その昔名も知らぬ1城主が自然の要がいを利用して築城してから幾星霜、今はただ40坪の平な城跡のみが華やかな昔を偲ばせているが、この城山には紫のつつじが咲くとその根元には金のかぶとが埋っているのだという伝説が伝わっている。
ハアー恋の城山
二人であえば
アヨイトセコリャセ
燃ゆるつつじが
胸焦がす ソレ
高井ヨイトコ ヨーイトナー
ある時、真紅に燃えるつつじの中に混って1株の紫のつつじが今を盛りと咲いていた。
子供が驚いて家に帰り、家の者が直ちに鍬を手にこの城山に来たがどこにもそのような紫のつつじはもうなかったという。
ここにある東屋より西方には善光寺平が豊かに拓ける野、果しないような平野の焦点にアルプスの連峰を望み、一条の銀河、千曲が横に延び、夕闇迫るころからは、ここかしこにネオンのような蛍光の灯がまたたいているのが見られる。
この荒井原は毛無街道の宿場としてその昔より大きな役割を保ち、酒蔵も方々にあったがこの部落にあった関谷という酒蔵は百石を作り、近郷、近在にその名を知られていたという。
この部落は「新井原」と呼ばれていたがいつの間にかその頭文字が「荒」に変った。
また正安寺の境内にある左側の大きな石は、この寺の二代目住職が非常に力があり、黒部村よりの帰途、橋石であったものを力を試そうとして軽々と持ち上げたままに運んでしまったと云われ、石を境内に下ろした途端血が石についていたので変だと思うと肩にして来た方の耳がなくなっていたという。 いまだに100貫以上もあろうと思われる石が残っている。
なおこの部落にはいろいろな小さなお宮が多くあり「大十二」は牧伊賀守を祀ったものと伝えられ、牧部落と関係が深く「大星社」は延喜式時代以前につくられたもの。
「県塚」は今の役場の前の附近にあったものだが県道を拡張するに際して横に片付けられたがその昔から発展していたこの部落は以前の方が多かったと古図は示しているが、今も役場や学校、農協と村の重要な建物があり村の中心をなしている。
今はこの部落では換金作物の栽培が盛んで、殊に惣布栽培は20余戸ある。 共同作業所も10年前に他部落に先がけて造り、現在この建物を公民館分館として650有余人の向上の集まりの場所として日夜利用されている。
『高山村公民館報』第6号「部落紹介」(昭和32年6月)より
旧村の中心地、荒井原といえばすぐ先に城山(つつじ山)を知らないものはない。
この城山には大正9年養蚕が盛になり養蚕神を祀って毎年春には盛大なお祭が行われ、若者達の屋台、みこしは恒例で、村一番のにぎやかなお祭として有名である。
城山養蚕神社のお祭り 昭和25年頃
(『写真が語る高井野歴史』より)
又近く入口の見晴台に故人松本勝治郎翁がその昔農道の開発、その他多くの偉業を残されたのでその40年忌を期に建碑が行われる。
この荒井原は毛無街道の宿場としてその昔より大きな役割を保ち、「新井原」と呼ばれていたが、いつの間にかその頭文字が「荒」に変った。
また正安寺の境内にある左側の大きな石は、この寺の二代目住職が非常に力があり、黒部村よりの帰途、橋石であったものを力を試そうとして軽々と持ち上げたままに運んでしまったといわれ、未だに100貫以上もあろうと思われるその石が残っている。
なおこの部落にはいろいろな小さなお宮が多くあり「大十二」は牧伊賀守を祀ったものと伝えられ、牧部落と関係が深く「大星社」は延喜式時代以前につくられたもの。
「県塚」は今の役場(本所)の前附近にあったものだが県道を拡張するに際して横に片付けられたが、その昔から発展していたこの部落は今より以前の方が多かったと古図は示している。 役場や学校、農協と村の重要な建物もあり、村の中心をなしているが、近く役場も新庁舎へ移ると今までの便利さと変って不便を痛感している。
今はこの部落では換金作物の栽培が盛んで煙草では日本一の牧幸次さんがあり、りんご、ホップ等の栽培は盛んに熱をいれられている。 又乳牛も盛んである。 共同作業所も10余年前に他部落に先がけて造り、現在この建物を公民館分館として改造され、部落民の向上の集まりの場所として日夜利用されている。
『館報たかやま』第458号「―ムラの成り立ち―」(平成8年1月)より
荒井原は、江戸時代には「新井原」の文字が使われていました。
「井」は堰を指します。
新井原は「新しい堰が引かれた原(ここでは扇状地)という意味です。
新しい堰とはもちろん
つまり新井原は六分堰が引かれてこの辺の原野の開発が始まったころ、喜びと希望をこめてつけられた地名と思われます。
では六分堰はいつ引かれたのかという疑問がすぐに湧いてきます。 残念ながら確かな年代はわかりません。おそらく戦国期(須田氏の時代)の開削と思われます。 その根拠は、六分堰が高井野村と黒部村の境界線になっていることです。 両村が分かれた1602年(慶長7)以前から六分堰はここを流れていたのです。
ちなみに江戸時代の絵図には、六分堰に「思ひ川」と書かれています。 おそらく四分堰に「紫川」の文字をあてた(村先→紫)ころ、つりあいをとって六分堰に「思ひ川」の名をつけたのでしょう。 昔の農民もなかなか風流ですね。
1621年(元和7)の福島正則の検地帳に新井・北新井・南新井・新井原の小名がみられます。 つまり、まだ戦国時代から江戸初期までは、この辺には赤和や水沢・中善、牧や山田などの村むらから集まってきた開拓者の小集落が点々と散らばっていたのです。
その後、開発が進んで家数も増え、17世紀半ばに新井原というムラ(組)にまとまっていきます(1662年『屋敷反別帳』)。 この帳面は江戸時代の高井野村の一応の形ができたことを示しているので表示しましょう。
組 | 屋敷数 |
掘之内 | 40軒 |
久保 | 24軒 |
中善 | 10軒 |
水沢 | 21軒 |
千本松 | 10軒 |
新井原 | 44軒 |
赤和 | 64軒 |
二ツ石 | 4軒 |
紫 | 13軒 |
その後、赤和が上下2組に分かれて高井野村は10組になりました。 新井原が荒井原にかわったのは明治の初めころです。
最終更新 2019年 1月31日