高井野の歴史>村の伝説と歴史

福井原

福井原区民
↑開拓の碑の前に区民全員集合(『信州高山村誌』)

 公民館発行の『公民館報』などに掲載された村内各地区の紹介記事をまとめました。
『館報たかやま(高山村公民館報)』及び合併前の『高井村公民館報』『山田村公民館報』から村の成り立ちや言い伝えとともに、昭和20〜30年代の暮らし向きを振り返ることができます。


伝説と歴史 新しい天地の巻

『高井村公民館報』第38号「村の歩み」(昭和28年11月)より

福井原 開拓村福井原の風景

「福井原」

西に雄大なアルプス連峰を望むここ福井原は、はじめて訪れた人には、8年前まであたり一面の松林だったとは思われない程に耕された広々とした台地。

この福井原開拓地は、太平洋戦争の様相がいよいよ深刻となり、沖縄を失い全国民が、本土決戦の覚悟をした昭和20年、逼迫した食糧事情を幾分でも緩和しようとする学童の勤労奉仕内地召集部隊の農耕班の活動などによって鍬を入れられたのがそもそものはじまり。

疎開児童の勤労奉仕
↑疎開児童が福井原の農場で勤労奉仕 昭和20年(『写真が語る高井の歴史』より)

開拓者  終戦とともに軍の復員、海外よりの引揚げそして食糧の不足と極度の混乱と不安な情勢が社会を襲った昭和21年の秋、いまの開拓地の人たち若者10数名がここを終生の地として開拓の鍬をうちおろした。

←開拓者たち(昭和24年ころ『信州高山村誌』)

以来、営々8年、木の株を掘り草の根をふるって今日みるような20数町歩の畠にきりひらいた。 家も建てた。妻もむかえた。家族もよびよせた。 家畜も入れ、鶏が鳴き牛が啼くようになり、そうして家々からは楽しい笑声がもれるようになり、ここに一応の新天地、村の型ができあがった。 が、ここまで来るまでには実に多くの言語に絶する苦難があった。

じゃがいも栽培  いまこの新天地福井原は戸数14、働ける大人は男14人、女13人そして子供たちが19人と合計46名の村となった。

←じゃがいもが収穫できるようになった(昭和25年ころ『信州高山村誌』)

この開拓村の耕地は1戸当り1町8反の畠、陸稲と大豆が主要農産物となっており、乳牛の導入による酪農経営が計画されているなど、将来への希望と夢は果てしなく開拓地の前途は洋々としているが、ほんとうの村造りはむしろこれからというところであり、まだ苦難の道もあることだろう。


福井原の開拓

『信州高山村誌』第三巻地誌編より

福井原は古くは牧地区の共有入会地であったが、民有地化されて牧に近い入口付近はすでに牧の人たちによる耕作がおこなわれていた。 しかし中ほどから上部は民有林で、原野のほかアカマツと落葉樹の雑木林であった。 福井原は樋沢川の段丘面で平坦であるが、標高が770〜850メートルもあって、江戸時代から開墾されたが永続しないで、山林原野として放置されてきた土地であった。

開墾のはじまりは、敗戦まぢかの昭和19年に緊急食糧増産のための軍隊によるものであった。 火葬場より上部で、林を伐採し、タンペで開墾し、焼畑のように野焼きして、そばが栽培された。 地元の話では、松代大本営の建設に携わった軍隊の50人ほどが従事したという。

敗戦後の食糧危機のなかで、未開墾地を国が買収して開発することが規定され、高井村においては福井原が食糧増産計画の開拓地となった。 村では昭和21年に2戸の入植開拓者を受け入れた。 主として復員者で、地元高井村6戸、綿内村3戸、須坂・小布施・都住・仁礼村各1戸、埴科郡から2戸の入植者があった。 当初は共同で開墾した。24年になって、1戸当り1町7反の区分が決定し、25年には実測して境界が決まった。 個人売渡しもおこなわれ名実ともに個人所有地となった。その面積は25町3反あった。 牧地区の人の話では、開拓地上部の民有林(薪炭林)の買上げ価格は、1町歩当り110円10銭であったという。

開墾には苦労話がつきものである。 入植当時はテント住まいの共同生活。秋までに茅ぶき10坪の平屋2棟を立てる。 昭和22年には10坪の住宅12戸ができ、翌年2戸が追加されたが、バラック小屋で、吹雪がまいこんだ。この年電気も引かれた。
 水にも困った。はじめは柞沢川から手桶で汲み上げた。 南町原の水源が見つかり板づくりの樋で引いたが、距離が長く途中の水漏れが激しく、日に2〜3度は修理に行く。 28年になってようやく水源からエタニットパイプで引いた簡易水道が完成した。
 また、雨が降るとトラックが立往生するぬかるみの道路、石を詰めては固める工事に悩まされ通しであったという。

昭和29年現在の土地利用が『上高井誌』に記載されている。
 陸稲34反、麦類32反、大小豆89反、その他雑穀28反、蔬菜21反、菜種など工芸作物65反、果樹4反、青刈り飼料作物17反、いも類13反の作付け面積288反で、穀物作中心の経営がおこなわれており、農業粗収入はいずれも20万円以下で、けっして良好ではない。 しかし牛乳集荷圏にあり、1戸あたり耕地面積が1町8反、採草薪炭林地が3町3反あるので、将来は酪農中心の経営がおこなわれると考えられていた。


参考にさせていただいた資料

最終更新 2019年 2月 5日

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