高井野の歴史>村の伝説と歴史

堀之内

公民館発行の『公民館報』などに掲載された村内各地区の紹介記事をまとめました。
『館報たかやま(高山村公民館報)』及び合併前の『高井村公民館報』『山田村公民館報』から村の成り立ちや言い伝えとともに、昭和20〜30年代の暮らし向きを振り返ることができます。


村の伝説 堀之内の巻

『高井村公民館報』第29号「村の伝説」(昭和28年2月)より

堀之内 上:新保塚
中:高井寺の老桜
下:一本杉の碑

「福島城趾と一本杉」

その古、芸州広島において64万石の大城主であった福島左衛門太夫正則が領地を没収され僅か4万5千石の川中島に流罪され家臣40余人と共に元和6年本村の堀之内に築城した。

その館址は東西17間3尺、南北40間の回字形を成し、周囲に高疊を繞らし桜、松、柏の樹を立ち門外に馬場を設けて晩年の生涯を過したが「須坂の町はたが立てた、高井野の太夫さんが立てた殿町だ」と須坂地方に伝わる俚謡のように郷民の福利に大なる貢献をなした。

即ち地味の肥痩によって年貢を規定して公平な民政を施し松川の堤防工事に巨額の財を投じたり、千曲河道の改修や「福島堰」と称する用水路を開拓したが寛永元年7月13日64歳で没した。

公の遺骸は直ちに荼毘にしたところ天俄にかき曇って暴風雨となり空より鬼が現れ公の遺骨を掴んで何処へともなく飛去ったと云う。 村人はその遺徳を偲ぶためここに1本の杉を植えた処、高さ10丈、周囲3丈に達した巨木となり、これを伐れば血が流れるとの伝説があったが、昭和9年の台風のために惜しくも倒れ今は一本杉と記した記念碑のみが堀之内の北方に建っている。

高井寺 ←高井寺本堂

なお城址は今高井寺のものとなっているが、天明5年夏頃、旅僧1人阿弥陀本願を演説しながらこの地に来て城址を村の中央の仏法の勝地にしたいと云い出て、村人が尽力して高井寺をこの地に移したが、僧の生国の尾州にはこのようなものが見当たらなく、村人達は正則公の再来と云って僧を慕ったと云われ、 それから何代目の現在、昔を物語っているのは同寺の東北にある高さ2米位の壕の土手と周囲4米に及ぶ老桜樹が当時を物語り、庫裏の南側には「海福院殿前三品相公月翁正印大居士」と記した公の古墳と東隣にある筆塚が苔むし、遺品として守本尊、肖像画などが当寺に保存されているが、公がこの村の開発に尽した功績は3百年後の現在村民から非常に感謝されている。

福島正則墓碑 ←高井寺境内の福島正則墓碑


「新保塚」

新保塚  昔四ツ屋原を開墾した際古墳の中に石櫃があり棺内には甲冑、太刀、轡等があり誰の墳墓であるかは判然としないが、高貴の人の古墳であるということから墳墓の傍に掘り出した器物を埋め、石棺の蓋石に新保塚と彫刻して建ったものと云われ堀之内の北方、三軒屋の辻にその昔を偲ぶ1丈近い塚が寒風にさらされている。

←新保塚

先人塚墓

『高井村筆塚並先人塚墓調査書』(昭和7年)より

何人の墳墓たるや詳ならず。古昔、四ツ屋原を開墾せし時、しんぽち塚を毀ちしに、中に甲冑、太刀、轡等を蔵せり。 明治12、3年頃、堀之内の有志者この塚の蓋石に新保塚の3大文字を刻し以て不朽に存す。 現今塚石のある所は旧跡にあらず、塚は元は現今の人家荒井菊之助氏敷地の処なりと云う。


部落紹介 堀之内の巻

『高山村公民館報』第23号「部落紹介」(昭和34年3月)より

高山銀座の呼称そのまま かつて福島正則配流の地

この部落の歴史は今から約3百年前より始まる。
 即ち勇名馳せた7本鎗の1人福島正則が主君の勘気に触れていまの広島からこの地に配流された。

当時のこの地方は山林、原野の続いた山中であったろうと思われるが、福島公は配流されてからは田畑を拓き、護岸を行い4万5千石の領主として専ら産業の振興に意を注いだと言われている。 公の遺体は堀之内と四ツ屋の中心において荼毘にされその後に心あるものによって、1本の杉が植えられた。 誰言うとなく一本杉と称せられるようになった大木もいくつかの秘事変遷を残し或は経て遂に昭和9年の台風に倒れ、善光寺平の一つの名所が消え失せた。

その墓は堀之内の高井寺の境内に筆塚とともに松風の吹かれるままになっている。 また城跡であるこの寺には鎗や公の守り本尊などが蔵せられている。

太田才右衛門 この福島公とともに筆されるのは太田才右エ門氏である。

←太田才右衛門

太田氏は紫と日滝及び小河原が水便のないことと、浄土ヶ原・日滝原を灌漑すべきであるとして、群馬県よりの引水に思い立ち10数回に亘り踏査し明治6年これが着工となった。 工事は進められつつあったが、隣村の故障に合い遂に中断となり、話合い終らない中に老齢のため発病し永眠されたのであるが、現在これが完成されていれば本村初め須坂市の一部で問題となっている鉱毒水の問題を始め、総合開発の実現も又叫ばれている日滝原開発も解決し、完成を見たのではあるまいか。

このような偉人の存在したこの部落はいまは高山銀座そのままに発展している。
 「生まれて死ぬまで、必要な職業は何でもある」と言われているが、正にその通り、店舗は多い。

また交通にも恵まれて、現在部落を県道が縦断しているが、この外に四ツ屋、三軒屋を通ずる道路が村に於て計画されており、将来須坂市の駅前にこの道が直結することになれば、文字通り南に北に交通に恵まれた部落となる。 余りにも交通に恵まれ、都市に近い部落なる故の悩みも多い。 それは消費文化が時とともに最も早く潜入するからである。


居館を中心にできたムラ―堀之内

『館報たかやま』第448号、449号「―ムラの成り立ち―」(平成7年3月、4月)より

堀之内にはムラの成立を知るための大きな手がかりがあります。 「福島正則の屋敷跡」と八幡社です。 正則がここに入ったのは、375年前です。 その頃、ここは幅5メートル、高さ2メートル以上の土手(土塁)、その外側の幅5メートル、深さ約3メートルの堀で囲まれていました。 ここは4、500年昔に造られた武士の居館であったとの説があります。 その年代がわかれば、堀之内のムラの歴史がかなりはっきりし、高井の歴史がずっとよくわかってくるのです。

その大事な年代を知るには、考古学の専門家による学術調査によるほかありません。 土塁や堀の造り方、石の積み方、組み方、土の層など。 また、堀の底に捨てられた陶磁器の破片や道具・日用品などの一部が重要な証拠になることもあります。
 一昨年の秋、ここ正則の屋敷跡周辺の下水道工事が行われた時、大きな石がゴロゴロ出てきて、そのうちの3個だけ高山亭の庭に運ばれました。 これは堀之内と高井の歴史を探る、かけがえのない重要な文化財−歴史遺物です。専門家の手による学術調査では、その価値はさらに何十倍にもなります。
 今ではこの3個の石をどう活かすかが問題です。 ひとつは、当時の状態をできるだけ正しく記録に残すこと、現場に居合わせたできるだけ大勢の人々に、出土状況をくわしく聞いて記録を残し、専門家の判断を仰ぐことが大事です。
 また、たとえ1枚でも写真が残っていたら、大きな価値があります。

福島正則屋敷の前身が、中世高井野郷を支配した武士の居館だったとすれば、その居館の成立が堀之内のムラの成立ちにつながるわけです。
 堀之内の居館は、小高い場所に築かれています。 ここは赤和・新井原・久保・水沢・中善・千本松の扇の要の位置に当たります。 これら各地に小武士(地主)がいたとすると、それらを支配できるのは須田氏ですから、館主は須田氏の一族か、重臣でしょう。

居館のまわりに武士が屋敷を構え、農民も住んで、堀之内のムラができたのでしょう。 その中の有力者として、藤沢氏や古志(のち篠原)氏などがいたかも知れません。 ここは湧き水もあり、川水も利用できて住みよいところです。

1561年(永禄4)、高井野郷は上州の戦乱に巻き込まれます。 羽尾入道(長野原町)が万座の湯に入湯中、鎌原幸重の奇襲を受けて退路を断たれ、高井野郷に助けを求めました。 高井野郷から数百人の援軍を出しますが、あえなく敗退します。 このころはすでに堀之内の居館は築かれていたのでしょう。

実はそれより73年昔(長亨2)諏訪下社へ「須田之内高伊野郷」から役銭を納めています。 このころもう堀之内のムラができていたかどうか、その成立ちの年代を決めるのが考古学の調査です。

下って1598年(慶長3)、上杉景勝が越後から会津へ移され、北信の武士は皆ついていきます。 あとには武士の一族や家来の一部が農民となって残りました。

福島正則屋敷跡  それから21年後に福島正則が高井野に移され、堀之内の居館に入ります。 梨本氏は正則に招かれて、八町村(須坂市)から移ってきたそうです。 この2、30年間は大きな変動期であり、それ以後300年のムラの歴史の出発点になりました。

←史跡「福島正則屋敷跡」


参考にさせていただいた資料

最終更新 2019年 1月31日

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