高井野の歴史>村の伝説と歴史
↑駒場地区全景
公民館発行の『公民館報』などに掲載された村内各地区の紹介記事をまとめました。
『館報たかやま(高山村公民館報)』及び合併前の『高井村公民館報』『山田村公民館報』から村の成り立ちや言い伝えとともに、昭和20〜30年代の暮らし向きを振り返ることができます。
『山田村公民館報』第26号(昭和27年7月)より
先住民はアイヌ族かともみられ、古墳なども発見されている。
又、北山麓には東西28間、南北4間の石垣の跡がみられ領主の館であったらしい。
当時は70余戸で主に農耕、放牧、兼業として焼物(スヤキ)などで生計をたてていたと思われ、霜方栄さんの家が火元だった。
又、古い建物としては涌井利男さんの土蔵などが残存している。
郷土の群像として第一に数えられる人物に、関山国師先生がいる。出生地は中野説もあるが、駒場公会堂付近説が正しいと云われている。再度の火災のためその史蹟は大半が失われたが、京都の栄平寺の開起として今もなお慕われている。
長野電鉄「村山駅」附近にある石碑は先生の功を賛えたものである。
←関山国師誕生の碑
また文筆、俳壇に秀でた人に善哉某さんがおり「道祖神」の石碑の文字にて知られる。 なお現存している珍しい立体地図を作成したという。
駒場は山田村の西玄関口だ。
東西に走る県道山田〜小布施線これに沿い流れる松川を吊り橋延長60米で渡る南北高井〜山田(駒場)線、東に堤、北、西に山を背にし、62戸(350余人)の人家が点在、田67反、畑458反(1戸平均7反4畝)を耕作しており、中でもりんご、養蚕、たばこ、ホップ(12町余)などが盛んで年間所得1千万円とみられる、村税45万円(1割5分)を納付し1位の順位で租税の比率は大きい。
戸数に比べ田(36戸)が少ないため畑作の高度利用に意を注いでいる。
特殊作物中りんごは逸早く栽培し、その産出額は多い。
花卉も盛んで年々増加している。
その採算を栽培者に聞いてみると、
「運賃諸掛を差引けば赤字ですよ」と、口を揃えて応える。
増加するこの現象は矛盾している。
「餅は餅屋で・・・」やっぱりその気持ちは花を愛する者のみが知っているらしい。
堪ちがたい花への執着が採算を度外視して「百万両」の夏繭を作っていられるのも駒場だからなあ!と思える。
繭は百万円、たばこ55万円、ホップとその額は多い。
部落の当面の活動について黒西分館長は、
「部落の主要道路がないため自動車が通らず、生産物の販売不利、その他いろいろ不便なため大変困っております。
こんど委員のもとで農道の拡張が計画されて居りますので最近には実施の運びになると思います。
それに皆さんの御協力で「消防ポンプ(10馬力)」を購入したので、防火用水池の新設、水路の改修など行いたいと思っております」
と語った。
その計画の実現に手をつけていく旺んなる実践力と熱情が「乳と蜜の流れる故郷」を建設していくことだろう。
『高山村公民館報』第11号「部落紹介」(昭和33年1月)より
世をあげて「りんご」栽培に転換し、企業的農業経営の先端をいったこの部落は、戸数62戸、344人、田67反、畑437反、桑園39反、乳牛15頭を数え畑作がその中心で現在166反の果樹園がある。 りんご栽培での先駆者涌井亀作氏、さらに全国品試会において第2位を獲得した善哉今朝太氏の技術普及に対する功績は大きい。
りんごに次いで「花」の栽培も盛んである。 また一部では「朝鮮人参」の試作もされている。
”駒場”明治初年までの行政区にあって、一国の城主の分割統治下であったゆえか、また昔において村税の30%をこの部落で賄われていたことが原因か知らないが、奥山田、中山田の人の気質にくらべ、なんとなく”駒場気質”なるものがすべての行動にうかがわれ”美点”もあればそれがかえって”悪点”ともなる場合がある。
「どうも協調性に乏しい」と、かげ口をたたかれていたこの部落においてそれを撤回することがおこなわれた。 一昨年の新農村建設事業による、りんごの共同防除施設がこれで、4カ所実施され、110反がその対象になっている。 県下においても珍しい事で、小布施のスピードスプレヤーとあいまって、こんごの栽培技術の革新をもたらすであろう。
また部落の総意によって農協の共同撰果所を地区内に設置し、生産量の大半をここで処理し共同出荷の優位性に一生懸命である。 しかしながら市場の開拓については、栽培技術や撰果の点など相当の困難さが見受けられ関係者の頭痛の種だそうだ。 しかし毎期増量にあることはこんごに期待される。
また人も知る郷土の偉人といわれた関山国師の遺跡をめぐって一部有力者の尽力にもかかわらずその大半を中野市に取去られたが、いまの公会堂周辺に住居していたといわれている。
地質的にみても古くから住んでいたらしく、数カ所からの古墳跡がみられ、その遺跡など沢山に蒐集され、郷土の歴史を物語る。 遺品の数々は涌井国治氏によって発見、大切に保管されている。 心なしな人によって破損紛失された遺品は多いといわれている。
放牧を中心とした古代にあっての名残か「駒のいる場」の名称と推察されているが、いまはガーデントラクター10台を越えエンジンの音も心よく近代化を地でゆくようだ。
『館報たかやま』第450号「―ムラの成り立ち―」(平成7年5月)より
駒場は高山村の中で最も古い史料の残っているムラです。
駒場のムラは鎌倉時代にはすでにできていました。
1338年の史料に「信州東条庄山田郷小馬場村」とあります。
これは、高梨小次郎入道定仏の娘源氏が、20年前の12月10日、祖母(尼法阿)から駒場の「宗二郎入道在家田畑」を譲り受けたのだと主張して、弟の忠保と相続争いをする文書です。
在家とは、中世の領主が所有する農民の家屋と屋敷地のことです。
つまり、今から677年昔(鎌倉時代の末)、駒場は高梨氏が支配しており、宗二郎入道という農民が経営する田畑があったのです。
その田畑はどこでしょう。駒場のみなさん考えてください。
高梨氏の居館が駒場神社の北の山麓にあったようですから、駒場のムラはそのまわりから開発されていったでしょう。
この文書に出てくる農民は宗二郎入道だけですが、他にも何人かの農民がいたと考えられます。
駒場のムラは高梨氏の居館を中心にして、鎌倉時代にはすでにできていたということになります。
ところが、駒場高梨氏はその後、延徳たんぼにまで領地を増やし、勢力が強くなり過ぎたので、1484年(戦国初期)、本家の高梨政盛(小布施)に急襲されて、小県郡の高梨へ逃げました。 その跡は政盛の一族に与えられました。
江戸時代の初めには山田郷が一括「山田村」とされましたが、1621年(元和7)の検地で、奥山田・中山田・駒場と三か村に分割されて、明治初期までつづきました。
最終更新 2019年 5月 9日