高井野の歴史>村の伝説と歴史

関場

 公民館発行の『公民館報』などに掲載された村内各地区の紹介記事をまとめました。
『館報たかやま(高山村公民館報)』及び合併前の『高井村公民館報』『山田村公民館報』から村の成り立ちや言い伝えとともに、昭和20〜30年代の暮らし向きを振り返ることができます。


関場の巻

『山田村公民館報』第25号より(昭和27年6月)

南に松川そして北には山、その中辺を走る県道小布施・山田線に沿って東西に18戸(100余人)の人家が点在するここ関場部落は昔の奥山田の玄関口として知られ、「関場」の名称も県道と藤沢線の三叉路に関所があったためだという。

現在2戸の非農家を除き水田2町歩余、畑9町7反(1戸平均7反8畝)を耕して居り、忽布、苹果等の栽培も盛んである。
又養蚕も盛んで年に150貫のマユを産出するという。

この外兼業として酒屋さん、畳屋さん、大工さんとこれらの収益も多額な額に上がる。

又冬期には製炭も盛んで約1千貫の木炭を生産している。 山林は25町歩余り所有し、共有のものが約7町歩、毎年この共有の雑木を製炭し全戸が暖く冬を送り、養蚕にもこの木炭を使用し、お互に和やかな村造りをしているのが自慢である。

昔この部落は山懐に在ったもので、約2百年程前、12月の1日に餅搗きをしていた際、裏山が崩れ全戸が現地籍へ押し出されたので、それ以来12月1日に餅搗きはするなと云う言い伝えがある。

山崎分館長は
「現在私共の分館では余り事業はしていないが7町余の共有林を活かして区民の文化向上のため種々の事業を推進して行き度いと思っている。 防火用水池の設置は2カ年計画で本年は1カ所完成しましたが、尚農道拡張、水路の改修等いろいろ計画しています」
と希望を瞳に輝かせて語っていた。

今日も亦、霧雨の中を代かきに又田植に或は商業に理想郷の建設目指して村人の不断の努力は続けられている。


部落紹介 関場の巻

『高山村公民館報』第8号「部落紹介」(昭和34年1月)より

昔は草津街道の関所

戸数17戸といえば本村でも極小部落。 松川渓谷を見下す十二崖の東、奥山田の玄関に位置するこじんまりした部落。これが我が関場である。

此の地は其の地名からも察しられる通り、昔、信州と上州を結ぶ草津街道の重要な地として関所があったとのこと、又、当時は今より約300メートル以上の山腹が部落の中心であったが、その後大きな山崩れがあり、松川まで流されたとのこと。 今でも松川附近や昔の住居跡と思われる所には、当時の物とみられる石臼や磁器等がよく見られる。
 今でも御堂山、寺跡等の地名があるのも当時の名残りである。

産業は部落の殆んどが農業で平均7反余りの耕作反別を持ち最近までは養蚕に主力を注ぎ稀に見る成績を示していたが、これも時代の波におされ、今ではホップ、リンゴに切り替えられつつあり明日への躍進を期しての熱心家が多い。

部落内の道路、用水路の整備等止むことなく活発な動きを示している。
 部落の年中行事も数多いがこれら部落の台所はすべて共有財産がうるをしてくれる。


関所のあったムラ―関場

『館報たかやま』第471号「―ムラの成り立ち―」(平成9年2月)より

関場は関所のあった場所という意味です。 同系の地名に仁礼の関谷(屋の当て字)、松代の関屋があります。関屋は関所の建物の意味です。 関場という地名は関所がなくなってから、その場所につけられた地名と考えられます。

では関所のあった場所はどこか。関場の元は関場区の中の字関場です。 このなかに関所があったはずです。関所は重要な交通路沿いに設けられました。 仁礼の関谷、松代の関屋はそれぞれ大笹街道、古い北国街道という重要な交通路沿いです。関場はどうでしょうか。

栗岩英治氏は関場について「関所のあった処だろう。高井牧の牧址と川一重。そして、ここから下高井郡穂波村へ越す峠を山田峠といって、川東の越後道の本筋であったようだ。そして、重要路だけに、そこに関所があったとみたい。小字大畑・大清水などはその名残か」と書いています。 「川東の越後道の本筋であった」のは中世のかなり早い時代と考えられます。 では、なにか関所の痕跡が字関場の中にないか。ありました。

関場のお宮  それは関場区の中央字関場にあるお宮の東の高い石垣です。 ここは牧から松川を渡り、藤沢の坂を登って、中山田からくる古道と合し、関場のムラから宮村の中央やや下へ通じる古道沿いです。 このお宮の付近に関所があったと思われます。大清水・大畑は、お宮の裏手にあったようです。

←関場のお宮

石垣  この石垣は大きな長四角の石が上下、横に若干ずらした積み方になっています。 さらに石垣の角の積み方はお城の石垣と同じで、長短の面が上下互い違いに積んであります。 こんな石垣は近隣では見かけません。ここに関所があった名残りではないでしょうか。

←お宮の東の石垣

もうひとつ、そこから西へ7、80メートル西の田が「番小屋の田」と呼ばれていました。 ここは昔の藤沢橋から真っ直ぐ上がる古道と中山田からくる古道と合わさる所でした。ここも候補地です。

関場は、中世関所がおかれたが廃止された後、年を経て宮村の藤沢氏、牧の山崎氏の一族が再開発してできたムラと考えられます。

奥山田地名
↑奥山田の地名(『信州高山村誌』)


参考にさせていただいた資料

最終更新 2019年 4月10日

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