高井野の歴史>村の伝説と歴史

天神原

  公民館発行の『公民館報』などに掲載された村内各地区の紹介記事をまとめました。
『館報たかやま(高山村公民館報)』及び合併前の『高井村公民館報』『山田村公民館報』から村の成り立ちや言い伝えとともに、昭和20〜30年代の暮らし向きを振り返ることができます。


天神原の巻

『山田村公民館報』第32号 「分館めぐり」(昭和28年1月)より

天満宮  天神原はその名の如く山田温泉とともに山田村最高の標高をもち、氏神様には菅原道真公をまつる「天満宮」がある。 奥山田の米蔵、平林、蕨平、観音堂、長峰、釜屋などの水田地帯を擁し、山林資源の豊富な三沢山のふところに抱かれためぐまれた里である。

←天満宮

共同作業所

バスを下りて先ず目にとまるのは木の香も新しい共同作業所である。 間口4間、奥行2間半で籾スリ、精米それに製縄機各々1台、脱穀機2台、これをまわす2馬力のモーターが2台、これが現在の設備である。 用材は全部部落林でまに合わせ部落民の勤労奉仕その他で昨年の12月12日に落成の式をあげた。 まだカベの乾かぬうちからナワ綯機は毎日忙しそうに音をたてている。

部落内道路の拡張

作業所の西に目を転じればこれ又土はだにツルハシの跡もくっきり残る2間道路が目に入る。 これは作業所と同時に部落内道路の末端まで自動車が行かなければと近代農業の受入と消防的立場から拡張実施の運びとなり、すでに第1期工事は完了を見ている。

農業の新分野開拓に懸命

分館長の藤沢嘉裕氏を訪れるとちょうど部落協同組合長の藤沢頼男氏も見え、そこで部落の様子をいろいろお尋ねして見た。 戸数は53戸、うち非農家は3戸。 特殊作物といえばホップ、タバコが主でその他花卉も行われている。 ホップは13戸で約1町5反タバコは6戸で本年度は相当の増加が見られるという。 家畜 馬21、役牛11、乳牛2、緬羊18。 馬や牛が比較的多く畜力の利用の程を物語っている。 乳牛も藤沢良吉氏が本格的酪農をめざして昨秋より着手している。 農業の研究は農事研究会といった組織こそもたないがなかなかの熱の入れ方である。 稲作では昨年の多収穫競作会で2位となった藤沢組合長、他部落からの見学者も多かった伍長頭の藤沢裕永氏など。 ホップ、タバコの当部落の権威者とも云うべき最高の耕作年数をもつ村議の藤沢武雄氏、花卉の藤沢分館長は温室を造り本格的栽培にのり出している。
 林業には望月伊作氏の経営する望月製材所がある。 その他炭焼が主なもの。
 万座行きは数戸あり外貨?獲得に一役かっている。

生きている芸能

芸能人というと多くの人の知る浄瑠璃の竹本美勇太夫こと藤沢八郎平氏(78)がある。 今もなお元気で有志の手によりたびたび歌舞伎が催される。
 謡曲は「観世」「宝生」の2流があり、互に研鑚を積んでいる。 一時その名を知られた「みどり楽団」は今そのかたちを止めていないのはさみしい。

ゆいしょある観音堂

この堂に安置されている観音像には古い云い伝えが残されている。 古い時代(年代不詳)に今の部落の裏の堂平地籍に堂があり、これが山崩れの為分校の東の観音堂地籍に押流された。 後ここより掘出され現在部落有田になっている場所に安置され、明治の代になって現在の場所に移転されたものだという。 この間に於いて善光寺にまつわる物語りもあり、その時スリ換えられたとの説もある。
 観音堂地籍の県道開鑿工事の際、人骨や昔の墓石である五輪玉など多数発掘され、これを一箇所にうめて五輪玉を立てたのが今も残る当地にある五輪玉だという。
 記者はこのゆいしょある観音堂に天神原部落の幸と発展を祈り帰路についた。

奥山田地名
↑奥山田の地名(『信州高山村誌』)


部落紹介 天神原の巻

『高山村公民館報』第13号「部落紹介」(昭和33年3月)より

カド先までトラックが ホップ、乳牛は村一番

標高1500メートルの三沢山に抱かれ、奥山田で最も大きな蕨平観音堂の水田地帯をかかえ、善光寺平を一望におさめ、温泉へ約2キロメートル、この地が当天神原部落。

その名も示すように当部落は菅原公(天神様)を祀る天満宮を氏神と仰ぎ、又−山田の縁起−という古書によると、木曾義仲の残党が逃れてこの地に定着したのが始めという。 その後今の堂平地籍にお堂があり相当栄えたが山崩れのため奥山田分校の東方まで流されたとのこと。 この地点は現在の観音堂地籍であり、堂平のふもとには清浄場の地名もある。

当部落は戸数51戸、このうち農家が49戸と大部分が農業で、耕作反別は1戸当り水田2反4畝、畑は4反1畝、水田は本村としては第3位。

以前は山仕事や万座行きが主な現金収入だったが、これも時代の波におされ、今ではホップが約2町、タバコ1.5町、乳牛は20頭と着々近代化農業にきりかえ、特にホップと乳牛は高山一である。

産業、文化のバロメーターといわれる道路も、部落内の幹線路は数年前にすでに拡張され、各農家のカドまではトラックや三輪車が行き、農道も無事部落で補助金を出して拡張に努めている。 どこの田や畑もリヤカー位は行けるようになるのも夢ではなくなる日も近い。

産業面の開発におわれた為ではあるまいが、文化面は一寸さみしい。 謡曲は観世、宝生とそれぞれ行われ、活花も今年からぼつぼつ。 また音楽愛好家による楽団も始まっている。

尚、九州の三池炭鉱労働組合長として活躍している宮川睦男氏は当地出身。

酪農、ホップ、タバコ、花卉、リンゴ等と平均6反の耕地をいかにして最高度に活かし、今迄の山林依存農業から脱皮するか課題と希望は多い。


五輪塔と宝篋印塔(ほうきょういんとう)のムラ―天神原

『自然と人のふれあう村』(平成9年)より

天神原は蕨平の東にあり、二つの間には広い田んぼがある。 この田んぼを開いたのは、蕨平の安田氏と天神原の藤沢氏などである。

「蕨平村」の名が、初めて史料に現れるのは、1451年の諏訪神社下社の文書である。 諏訪神社が蕨平に勧請される前の15世紀前半ごろに、鎌田堰が開かれ、この広い田んぼが開発されたと推定される。 そのような経済力が背景にあって諏訪神社がこの地に迎えられたのであろう。

その中心になったのが安田氏であり、それを助けたのが望月氏・藤沢氏と片桐氏であると思われる。
 天神原の地名の元になる天神社(天満宮)は、望月氏の鎮守神だったと伝えられている。

安田氏・藤沢氏・片桐氏・望月氏らは互いに親戚関係を結び、力を合わせてムラの発展に尽くした。

五輪塔と宝篋印塔  蕨平と天神原の中間の県道沿いに、五輪塔と宝篋印塔を集めた一画がある。 これらの五輪塔群は東北の天満宮前方の堂平付近にあったもので、大昔の地震の際、地滑りでこの付近に流されてきたと伝えられている。 これらの供養塔は、おそらく前述の諸氏が建てたと考えられる。

←五輪塔と宝篋印塔

また字釜屋の前、バス停の南に盛り上がった小丘があり、城山とよばれている。 見晴らしがよく、大正末期に児玉果亭の詩碑や一茶の句などが建てられ、月見の句会が催されたそうである。 戦国時代には見張り台として使われたものであろう。


参考にさせていただいた資料

最終更新 2019年 5月13日

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