高井野の地理高井野の水利

米から果樹へ〜旱魃常襲地の転換

 リンゴの花が散って青葉が繁り始めると、古来より旱魃常襲地帯であった松川扇状地の果樹園でスプリンクラーによる散水が始まります。
ワインブドウ畑の散水試験
↑ワインブドウ畑で散水試験(2021年4月15日)

明治初期、この一帯約700ヘクタールで稲作ができるようにと太田才衛門らが私財を投じて隣国の上州から水を引く開鑿工事に着手しましたが、分水嶺を越える『太田堰』の難工事は途中で挫折し、畑地の水田化はなりませんでした。
 それから90年後、かつては日本海からサケが遡上したこともある八木沢川の水を低地から高地に揚水して散水する畑地灌漑施設が完成し、瑞穂を稔らせようとした先人の悲願がブドウやリンゴなどの果実に形を変えて実現しました。
 その経緯を『須高』『高井村公民館報』『館報たかやま』『信州高山村誌』から引用してまとめました。


日滝原土地改良事業

小林謙三「日滝原と水」より

昭和37年(1962)、この年須坂地方はひどい日照りで、日滝原の主産業であるりんごにも大きな被害が出た。 根からの水分補給が出来なくなると、木は自分が付けた果実から水分を奪って生きようとする。 そのために実は大きくなれず落果してしまうのである。
 農家は川から水を樽に汲んでリヤカーで運び、りんごの木の根元に流すなどの涙ぐましい苦労をしても、正に文字どおりの焼け石に水の有り様であった。 非常事態だったとは言え、相森では消防ポンプを引き出して八木沢川から水を揚げる騒ぎだったと聞く。 前出の県試験場気象表も、8月41.4mm、9月19.9mmと、それを裏付ける数字を残している。 この2カ月間の合計降水量61.3mmは平年の30%程度のものだったのである。

この大旱魃を機に、国の土地改良法の施行とも相俟って、国、県の補助を受けて日滝原畑地灌漑事業への取組が始まった。 その中心となって活躍した人が、相森町の今井信氏(後の日滝原土地改良区理事長として現在に至る)である。
 39年ごろ期成同盟会を結成して、各地区の農民に対して説明会を持ち、やがて期成同盟会は設立委員会に発展し、須坂、小布施、高山、更には中野氏や県外に居住する土地所有者の、93パーセントもの人(70パーセント以上の賛成者が無ければ国の補助事業としては認められない)の賛成を得て、ついに念願の歴史的な灌漑事業は始まったのである。
 昭和41年から工事は始められ、完成は47年3月であった。 豊洲地籍の八木沢川と百々川の合流点下にラバーダムを作り、そこから第一(小島)、第二(虫送り)、第三揚水機場(高山)へと次々とポンプアップし、それを地上4.5mのスプリンクラーで散水する灌漑設備を完成させたのである。 正に下から水を取る発想が現実のものとなったのである。

竣工記念碑  今、高山村字四ツ屋うらの第三揚水機場には、見上げるほどの大きな自然石に、全国土地改良事業団体連合会会長小坂善太郎の筆による、「竣工記念碑」が立っている。

←第三揚水機場構内に建立されている竣工記念碑

碑文  その裏面には県知事西沢権一郎(撰文)理事長今井信の名で、建設までの経緯がていねいに記されていて読む人の理解を助けてくれる。 ただし、銅版の腐食がすすみ、やや読みずらくなってきているのが惜しまれる。 碑文によれば、送水管は総延長33万2千m余にものぼるという。

←竣工記念碑の碑文

  碑 文
 北信五岳を一望におさめる日滝原台地は須坂市の北東部に位置し、白根山から流れる松川によってつくられた扇状地で県下でも有数の果樹園が開発されている。 しかし天はこの地域に恵みの水を与えることが少なく、農民百年の夢はここに豊かな水をもたらす畑地かんがい工事をおこなうことであったが地域の広大さ、水源の確保、費用の負担等いくつかの障害のため実現に至る道程は困難なものがあった。 この夢を結ぶことができたのは関係農家の熱意とたゆまぬ努力の結果であった。
 昭和三十八年須坂市は基礎調査を開始し国と県に対しこの事業の採択を要請してきた。 小坂、倉石両国会議員の絶大なご努力もあって農林省の事業採択が決定した。
 このため県では昭和四十年に県営かんがい排水事業として実施設計を樹立し一方、地元では長野県日滝原土地改良区が発足した。 昭和四十一年工事に着手し、八木沢川から取入れた水を第一揚水機場から第二、第三揚水機場を経て順次日滝原に配水し、渇いた七百五十余ヘクタールの樹園地を潤すことができた。
 更に貧弱な農道の整備もあわせておこなうこととなり起工以来六年の年月と十二億二千余万円に及ぶ経費を要して昭和四十七年三月すべての事業の完成を見ることになった。
 着工以来造成された送水管、幹支線は三十三万二千余メートル。 農道の新設改修は一万二千余メートルに達した。 この大事業を完成しえたのは関係機関の指導援助もさることながらひとえに組合員の団結協力の賜にほかならない。 いまこの事業の完成によって七百五十余ヘクタールの果樹園は今後いかなるかんばつをも克服することが出来、地域農業の発展に貢献することは極めて大きく、この偉大な成果を組合員とともに喜び過ぎし年月の労苦を偲んでここに一碑を建立しこの畑地かんがい事業の由来を刻み、永く後世に伝えるものである。
 昭和四十七年三月
  長野県知事 西沢 権一郎(撰文)
  長野県日滝原土地改良区理事長 今井 信

碑の近くで働いていた農家の人が、農道は広くなったし、潅水ができるようになって本当にありがたい。ただ金はかかるけどな、と話してくれた。
 当初の加入者は、1820〜1830人ほどだっというが、私が調べた昭和55年では、加入者は1663人とのことであった。 内訳は、当然ながら須坂が最も多くて880(本郷150、相森80、高橋45、大谷30)、小布施447、高山281、その他が55であった。
 工事費は約12億円で、農民の負担はそのうち約4億8千万ほどだったという。 農民にとっても大きな負担であり、現在も受益者負担として面積に応じた返済が続いているのであろうが、林立したスプリンクラーから降り注ぐ人口の雨、それを受ける樹園の光景。 わずか30年ほどの間でこの大変貌を、先覚者や昔を知るものは、どんな感慨で見上げているのだろうか。

これで水問題は解決したとは言えないかも知れないが、かつてのようなひどい干害に苦しめられることはないのではなかろうか。 日照りの苦しみを知る農民も、それを語り伝える人もだんだん減って行けば、スプリンクラーも、昔からそこにある単なる風景のように受け止められるようになってしまうかもしれない。
 私が日滝小学校にいた昭和55年ころでさえ、高学年の子どもたちでも、このスプリンクラーの水は水道の水や地下水だと思いこんでいた。 大人の中にだってそういう人はいっぱいいたような気がする。 現在でも水道水とは思わなくても、千曲川の水だと思っている人は多いようだ。 それだけ農業と縁の無いひとが増えたのかとも思えば無理も無い話だが、それではいけないような気がしてならない。 この地の人々の水を求めた辛苦の歴史、それは語り継がれるべきもののように思えてならない。 過去に学びながら現在を生き、未来に生きるためにも。


日滝原への引水事業

小林謙三「日滝原と水」より

日滝原の開発とそこへの居住は、いかにして水を得るかの苦難の戦いだったと言っても過言ではなかろう。
 日滝原の年間降水量は1,000mm程度と聞いているが、今回、相森にある長野県農業総合試験場の観測データをお借りして調べたところでは、最近5年間の平均降水量は800mmにも達していないので驚いた。 昭和59年には505mmという驚くべき数字を記録している。
 このように、日本の中でも極めて寡雨地帯にあり、かつて我々が地理で学んだ少雨地帯、そしてそれが塩田の重要な成立条件だと教えられた瀬戸内海に面する高松市の1199mm、岡山市の1223mm(いずれも昭和61年理科年表より)と比べても、いかに降水量の少ないところかがわかる。

天水に頼れなければ、人為的な水の供給を考えざるをえないのはこれ又当然のことである。
 このことに取り組んだ事業として、私は太田才右ヱ門の引水事業と、日滝原土地改良区の畑地灌漑事業のことについて少々触れてみたい。


太田才右ヱ門

太田才右ヱ門(1819〜1884)は、高井野村堀之内の人。 彼は村の東に連なる上信国境の山を越え、群馬県側の水を集めて、それをトンネルを掘って長野県側に通し、その水で日滝原に770町歩を開田し、1万425石8斗の米の収穫を得ようという遠大な計画を構想したのである。 そして明治11年、高井、日滝、小河原の人達と共に、この計画は実行に移され、難事業は始まった。

水源を上野国吾妻郡干俣、大前両村の入会山(万座山)の中腹に求め、そこの谷川の水と万座川の水を南西に流してケナシ峠に導き、それより下に約千メートルのトンネルを掘って樋沢川へ落とし、竜宮淵より増えた分を決めて高井地区内を西へ流す。 日滝村地区内では二つに分流させて一つは相森へ、一つは小河原村新田へ導き、八木沢川に落として最後は千曲川に流入させるという大事業なのであった。

引水計画絵図
↑願書に添付された「新堰開鑿絵図」(『高山村誌』より)

莫大な費用と労力をかけて、この事業は明治13年5月には完成し、流れる水を見て関係者は躍り上がって喜び合ったようである。 ところが、夏頃になると流れがどんどん減って来てしまい、おかしいなと思って調べてみたら、万座山の中で川に穴があき、そこからの漏水でそこから先の流路が乾き切っていた。 その落胆ぶりは想像に難くない。 しかし、才右ヱ門たちはそれにめげず、新しいトンネルを掘ってこの打開を図ろうとした。 だが不幸にもこのトンネル工事は、当時の技術をもってしてはどうにもならない固い岩にゆくてを阻まれ、工事は遅々として進まず、ついに費用もどん底をついてしまった。
 明治17年2月21日、才右ヱ門は起業人総代として、同村の久保田慶佑、同じく戸長内山沖右ヱ門との連名で、時の長野県令大野誠に援助を求める嘆願書を提出したが入れられず、ついにこの事業は彼の死と共に実現できなかったという。


日滝原畑地灌漑の歩み

日滝原に農業用水を引き灌漑することは、ここに畑を持つ農家にとって悲願であった。 その開発計画は江戸時代にはじまるが、第二次大戦後も何度となく開発計画が試みられてきた。


水源探索

昭和26年(1951年)に上高井郡農業委員会の呼びかけにより、須坂・豊洲・高井・山田・小布施・都住・日野の関係7町村が日滝原開発委員会をつくった。
 翌年、農林省農地局の電気探索班が派遣され、電波探知機により地下水調査を実施した。 12回にわたって日滝原42カ所の地点を調査した結果、50〜60メートル掘れば、相当量の地下水が得られると判断された。 そこで県営工事として、松川扇状地の中央部にあたる須坂町虫送の東端地点でボーリングを実施した。 しかし、90メートルほど掘ってみたところで、1日500石〜600石の地下水しか得ることができず中止となった。

昭和28年(1953年)には、地下水と河川の水を併用する計画がたてられた。
 まず、高井村牧の樋沢川の水を利用して、豊洲村が所有する入会山の山麓に溜池を作ることが計画された。 この計画について、水利権のある牧区と相談したところ、水量の不足と関係地に民有林の面積の多いことが問題となった。 そのため、この計画には着手することができなかった。
 つぎに高畑の北端にボーリングして得た地下水と八木沢川の水を利用する計画がたてられた。 ボーリングを試してみたところ、地下90メートルで1日1500石の地下水が得られた。 しかし、この水と八木沢川の水を利用して各畑に引水する場合、反当り2万4000円の工事費を要するため、費用が個人負担では困難と判断され中止された。

八木沢川と松川
↑八木沢川と日滝原・高井原(「川の名前を調べる地図」より)


こうした経緯を『高井村公民館報』第48号(昭和29年9月)が報じている。

日瀧原開発その後の動き
いまだ実地調査の段階
八木沢川を逆流して灌漑に

本村の下原、四ツ屋原など68町歩を含む、日滝原580町歩の農業水利を図るために日滝原開発委員会が昭和27年2月設置されて以来2年半、その後どうなっているのかという声もあるのでその動きを見よう。

この委員会は須坂市、高井村、山田村、都住村、小布施町の1市1町3カ村でつくられており、日滝原開発に含められている関係市町村の耕作面積は広い方から並べると次の様になっている。
 須坂市  345町歩
 小布施町 106町歩
 高井村  68町歩
 都住村  40町歩
 山田村  20町歩
  計   579町歩

この日滝原は、農業用水利に全く恵まれておらず、毎年のように干害を受けており、これの対策は古くから関係市町村の悩みの種であった。
 本村においても一部識者の間に、この対策としてこの原に灌漑水を流し畑作灌漑を行ってはどうかという声がないではなかったが、それにはダムの建設が必要ではないかということであった。 また灌漑水取入口の改修も年々行われてきている。

日滝原開発委員会はこれらの各市町村の共通の問題を綜合的に解決しようとして設置されたもので、昭和27年度は、農林省の電探による地下水の調査により須坂市の虫送りに60メートルの鑿井井戸を設けて揚水試験を行ったところ、1昼夜の揚水量700石で計画水量の20分の1程度であった。

昭和28年度は、更に須坂市高畑地籍に90メートルの鑿井井戸を設けて揚水試験を行ったところ、揚水量1昼夜5,000石で、これも計画水量12,000石の半分にも達せず、またポンプ台数も増加するので維持管理費が増加することになるので従来の揚水方針を全面的に変更することになった。

八木沢川は水質、水量調査を行ったところ、下流へ行くと酸性が相当程度緩和され、また水量も揚水期になっても用水として相当量あることが判明したので、これを須坂市の豊洲押堀地籍より揚水機により揚水して灌漑する計画がたてられ、本年度は、このための地形測量が行われているというのがこの日滝原開発の現状である。


昭和31年には、八木沢川の水を扇端から4,197メートルの導水管で扇頂に向かって揚程150メートルを揚水し、陸稲などの普通畑や果樹園を灌漑する県営工事の計画がすすめられた。

日滝原畑地かんがい
事業着工見透しつく
早急な土地改良区の設立が必要

『高井村公民館報』第67号(昭和31年5月)

須坂市及び高井村の一部にして、須坂市街地・明覚山・雁田山・小布施町に囲まれた通称日滝原及び高井原と称する扇状地帯で、総面積780町歩に及び、干害のため関係農家は長らくこの対策に腐心してきたが、ここに改良区の設立をまって、日滝原地区のかんがい事業が31年度から着工できる見透しがついた。

日滝原地域は780町歩に及び、須坂市が672町歩、高井村が108町歩で、松川及び八木沢川によって形成された扇状地帯であって、地域内には水路もなく、昔より常襲干害地のため、2,100戸の農家は全く天候次第の不健全な農業経営を続けてきたのでありますが、たまたま昭和27年度に畑地農業促進法が国会を通り、畑地かんがいによって永年に亘る干害の悩みを解消すべく、関係者によって日滝原開発委員会が設立され力強い発足をみた。
 委員会の発足と共に、3月の初旬に農林省電探班による地下水調査が開始され、着々基礎調査が進められ、6月には県営土地改良事業施行予備審査申請書を提出し、28年の1月、県より仮決定の通知を受けた。 以後3年間、機を見ては農林省並びに県に対して陳情を行った。 これに対して10数回の測量調査が関係機関により実施された。
 幸いにして、農林省並びに県当局の理解と協力により、受益面積普通畑570町歩、果樹園210町歩、計780町歩、事業費2億8,500万円、増収見込み陸稲換算1万石に及ぶこの大事業が愈々31年度より着工の明るい見透しがついたのであって、日滝原地区780町歩のうち180町歩を有し、更に関係農家戸数は323戸あり、本村の産業経済にとっても、正に一大福音というべきである。

然しながら早急に土地改良区を設立して地元の受入態勢を確立しなければこの事業の推進はできないのであって、村ではこれの設立を5月上旬に完了する目途ををもって、土地改良区の設立同意書を関係農家に依頼中であるが、同事業の成否を左右することであるから、絶大なる理解と協力によって、全関係農家の賛成を得ることを希望します。

工事計画の概要

日滝原畑地かんがい計画概要図←日滝原畑地かんがい計画概要図

近隣河川は鉱毒の酸性水に侵されており、有効水源と予想された地下水もまた低水位にしてその量少なく、上流真水河川は水量少なく、水利権の障害があり地質上溜池に適当な箇所もないが、地区西方の低部を流れる八木沢川はその流水量50石毎秒流れ、水質PH6.5にして充分かんがい用水として利用でき得るものである。
 八木沢川の旧百々川の合流点の下流200米の地点に頭首工を新設し、33石の水を取水する。 頭首工より地区西端まで、902米の地区外の導水は潰地を少なくするため、現在の排水路断面を拡大し、逆流させて導き、ここに第一揚水機場を設置し、本地区を横断する県道須坂−中野間西方200米の地点に第二揚水機場を設置し、更に須坂市高井村境より東方150米の地点に第三揚水機場を設置し、三段に揚水する。
 ポンプは第一揚水機場520馬力2台、第二揚水機場は240馬力1台と440馬力1台、第三揚水機場は100馬力1台で、総計5台にして1,820馬力である。
 送水管は総延長5,151米にして鋼管及び耐圧ヒューム管を使用する。
 各揚水機の吐出水槽より、等高線に平行方向、即ち南北方向に幹線水路4カ所、総延長5,810米コンクリート巻立の開渠を新設し、各幹線水路より、16カ所総延長5,110米コンクリートの開渠の支線水路を設ける。 更に支線水路より小支線水路を設け、各1枚1枚の畑にかんがいする。
 支線水路及び小支線水路には農道を60間置き沿わしめて、営農形態の改善を計る。

かんがい水の決定は、陸稲を対象とし、5日おきの30耗かんがいであり、陸稲の穂孕期間は5日おきの50耗かんがいで、揚水機の運転時間を普通は12時間運転であるが、16時間運転を行い畦間にかんがいする。
 なおポンプ動力に必要な電力は33,000Vの高圧で受電し500KVHの変圧器3台を設置し、3,300Vに変圧して各揚水機に配電する。

畑地かんがいの効果

かんがいによるりんごの効果は農業試験場須坂園芸分場にて試験された結果は次のような効果がある。


しかし、この頃から「りんごは水はけのよい扇状地での栽培に適している」「りんごは他の作物に比べて価格が高く、収入の増加が見込める」といった理由で、陸稲や麦、大豆などの畑作物からりんご栽培への転換が進んでおり、灌漑の必要性が少なくなったと考えられたことと、総額2億8500万円、10アールあたり3万7000円もの工事費がかかることから、この工事は見送られた。


日滝原畑地灌漑事業の実現〜穀物から果実に転換

昭和36年(1961年)、37年(1962年)と2年続けて厳しい旱魃に見舞われ、リンゴ農家は経済的大打撃を受けた。
 その後、昭和39年(1964年)からリンゴやブドウなどの果樹を対象にする灌漑事業の実現に向けた活動が始まり、昭和41年(1966年)から県営事業として工事が着手された。


日滝原畑地灌漑
水源は八木沢川と百々川(須坂)
須坂も含み757町歩

『館報たかやま』第78号(昭和39年8月)

日滝原畑地かんがい事業について、上高井地方事務所において調査されていたが、その概要がまとまった。 近く関係市町村である高山村・須坂市・小布施町において耕作者にその趣旨を説明し、同意を得て工事を施工する運びとなった。

日滝原畑地かんがいの最初

高井原、日滝原は干害のときは無収穫となるのが通例である。
 そこで昭和28年頃、畑地かんがいをしようとする声が起き、河水や地下水を調査し、畦間潅水をしようとしたが実現を見ることが出来なかった。
 これが日滝原畑地かんがいの始まりである。

生育のよいことを実証
 潅水した作物

最近、農業構造改善事業が提唱されるにいたり、各地に畑地かんがい事業が計画されている。
 特に昭和37年に干害があったことから、高井原・相森などでは、スプリンクラーにより部分的にではあるが実施されている。
 その結果、潅水した作物は非常に生育がよいことを立証してくれた。

日滝原畑地かんがい事業促進期成同盟会設立

しかし一部の地域以外は、地下水も河水も得られず、よいことでありながら実現不可能な地区が非常に多い。
 このようなことから、規模の大きな畑地かんがいをし、関係者全部が恩恵を受けようという声が高まってきた。
 上高井地方事務所を中心に検討され始めた。
 昭和38年に日滝原畑地かんがい事業促進期成同盟会設立の機運が出てきた。
 一方県からもこれに対する調査費が支給されるようになった。
 本年に入り、日滝原畑地かんがい事業促進期成同盟会が設立された。 会長に須坂市長、副会長に高山村長、小布施町長、顧問に市村県議、松沢県議、上高井地方事務所長を推載、各市町村から委員が選出された。

事業の実施を決定

本年、県においてはこの事業のため調査費百万円をあげ、河川の水量、地域などを調査し、その状況を第三小委員会に諮り検討した。
 そしてこのほど、日滝原畑地かんがい事業促進期成同盟会総会を臨時に開催し、この事業を実施することに決定した。

豊洲からポンプで駒場橋入口まで

日滝原畑地灌漑地区
↑「日滝原畑地灌漑地区図」(『信州高山村誌』)

 須坂市地籍の八木沢川と旧百百川の合流点より、約2百米下流に頭首工を設けて取水し、豊洲診療所表付近まで導水路により引水する。
 ここにポンプ室を設けて虫送まで河水を上げ、ここにまたポンプ室を設けて、駒場橋南入口の手前200米まで水を上げる。
 そこからは自然流下でかん水するものである。しかし上部は水圧がないのでポンプで加圧する。
 散水量は、常時4トン、最高6トン、スプリンクラーによる散水である。 潅水は5日おき、スプリンクラーは固定式のもの。
 地域は、須坂市の小河原より日滝地籍の原、本村では千本松裏、下原、四ツ屋裏、十二崖および神明下の一部。
 したがって地域は、千本松付近は、村境より天神社の付近までは樋沢せぎが潅水地域の境となり、これより北が対象地域となる。 三軒屋から四ツ屋紫にかけては村道がこの境となり、これより北方が十二崖までが対象となる。 神明下は、紫の宮沢新義宅西の農道を北に向かい、虫送に流れる新川に沿って下り、四ツ屋から駒場橋に通ずる道路に接続したところから下方ということになっている。

「事業費」
 現金支出反当7,400円

関係面積は757町歩(内本村は137.5町歩)耕作者は約500人である。
 これに要する経費は、県の事業費で3億5000万円(この25%地元耕作者負担)、土地改良区を設立して事業を行うものが2億2000万円(この60%耕作者負担)、このほか6056万円のスプリンクラーの立ち上がりが耕作者負担となっている。
 これを反当りでみると、スプリンクラーの立ち上がり反当り3.5本平均としてこれを合算すると36,997円が必要となる。
 この内、借入金が29,597円で現金支出は7,400円となる。
 なおこの借入金は25年償還となっている。
 この事業は2町5反毎に区切って配管し、これを10のブロックに分け、1日に2反7畝づつ潅水することになっている。


工事の進捗

長野県日滝原土地改良区『設立50周年記念誌 五十年のあゆみ』より

送水管敷設工事送水管敷設工事(昭和44年1月)
頭首工ラバーダム頭首工のラバーダム(昭和44年3月)
畑かん配管工事畑かん配管敷設工事(昭和44年12月)
かん水試験かん水試験(昭和44年5月)
竣工式竣工式(昭和47年7月)


日滝原畑かん一斉に始まる

『館報たかやま』NO.175(昭和47年6月)

リンゴ畑の散水  高井地区四ツ屋原の果樹園地帯が、スプリンクラーで一斉に散水が行われ、見事なアーチをえがいております。

←散水試験中のリンゴ畑

毎年旱害になやまされている須坂市小河原より本村紫に至る松川扇状台地の畑地一帯(757ヘクタール)のかんがいをおこなうということで、昭和40年に日滝原土地改良区(組合員1700名)が設立され、41年度より工事を着手、今年3月に完成したものです。
 鉱毒水でない八木沢川の水を千曲川合流地点でラバーダムにより取水し、導水路で小河原の第一揚水機場へ送り、ここよりポンプで第二(虫送)、第三揚水機場(四ツ屋裏)へと押し上げ、それぞれの機場から支線と配水線により、各園地へ送られているものです。
 このかん水施設は全自動であり、中央コントロール室(第一揚水機場)で遠隔操作され散水するもので、故障も中継所(12か所)やジョイントボックス(300メートル)でチェックされる仕組みになっております。
 6か年続いた工事も本年3月をもって完成をみましたが、県営、団体営と畑総の事業を合せた総事業費は実に312億1100余万円かかっております。
 かんがい総面積757ヘクタールで、そのうち高山分110ヘクタールあり、耕作者(組合加入者)は現在全体の19パーセントの320名ほどです。
 パイプの長さは、送水管から幹線、支線までの77キロメートルと、末端の配水線の長さは236キロメートルにも及んでいます。
 散水方法は、全域を55ブロックに分け、(本村分8ブロック)これを20ローテーションにして、1日1か所3時間散水の4ローテーションをこなし、5日間で全域がかん水されます。
 10アールあたりの負担額は約2万5000円掛っており、今後借入金約4億円の償還金が毎年10アールあたり4、5千円の返済となっております。
 このように大規模な、しかも近代的な施設に多大な経費を投じたこの日滝原地区の樹園地がスプリンクラーによって恵みの雨となり干ばつを解消し、原一面を豊かにうるおしていよいよ収益が上らんことを願うものです。


施設の概要

頭首工  長野県道343号村山小布施停車場線が八木沢川を渡る八木沢橋のすぐ上流に頭首工を設けて水を取り入れ、導水路で小河原の第一揚水機場へ送る。
 頭首工の上を上信越自動車道が通過している。

頭首工頭首工のラバーダムと水門(須坂市小島)
水利使用標識水利使用標識
導水路頭首工から第一揚水機場までの導水路
第一揚水機場第一揚水機場(須坂市小島)

 そこからポンプで虫送の第二揚水機場、さらに高井の第三揚水機場へと押し上げる。
第二揚水機場第二揚水機場(須坂市日滝)
第三揚水機場第三揚水機場(高山村高井)

それぞれの揚水機場から幹線水路、支線、配水線を経て、果樹園内に25メートル間隔で立てられたスプリンクラーが接続し、樹上潅水する。

水管理システム  第一揚水機場に併設された水管理システムで灌水を自動制御する。
←水管理システム


作物体系の変化と新たな課題

灌漑施設が完成して半世紀を過ぎ、この間に主要作物がリンゴからブドウに変わってきた。
また
1)設備の老朽化による維持管理
2)農家の高齢化と後継者の育成
といった新たな課題の解決が重要になってきている。


参考にさせていただいた資料

最終更新 2020年 4月18日

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