高井野の歴史

木曾の城〜『義基伝説』

笠岳と木曾の城山
 笠岳の東側に、稜線から緩やかに南西へ傾斜した「木曽の城山」があります。
 国土地理院5万分の1の地図に山名は記載されていませんが、古い伝説が伝えられています。


『木曾義基伝説』

元歴元申辰年(1184年)木曾義仲の子・旭三郎義基が鎌倉から信濃の山中に落ち延びてきました。
 付き従っていた者は藤澤治郎左衛門尉清近、片桐小太郎景国、安田治郎義秀、窪田藤六郎孝義等で、藤澤はかつて伊那に居住したことがあり、その縁で当国へ従ってきたもので、主従総勢15名でした。
 義基母子を匿うため、従者は村人と一体となって西見合野(奥山田関場)花樹庵下に隠関を設け、追っ手の侵入を防ぎました。 関の南は岩谷で急流の松川、北は花樹山で、片桐小太郎は鎗の名人、藤澤次郎は弓の達人で、強力壮勢の百姓とともに都合17人が2〜3年ほど関を固めてかくまっていました。
 しかし中央の詮議が厳しくなると伝わってきたため、3〜4里も奥の七久里の湯(七味温泉)や隈久保の湯(五色温泉)のあたりに忍ばせようとしましたが、糧米の搬入がうまくいかなかったため、笠とり山(笠岳)の東斜面の道本平に隠れ家を作り、討手の風聞が止む迄寂しい深山に隠れようと、文治2年丙午(1186年)6月10日に笠岳山の東に移りました。
 このとき義基の母は涙ながらに
 『こはごはの忍び隠れの親子鳥
   身の行末ぞ深き山家に』
と歌い、これに応えて義基が
 『雨は降る道はわらびの山しなの
   笠とり山や何れなるらむ』
と詠じました。
 義基母子はここ道本平に身を潜め、糧米は越中野からどうふん道(道本道)によって運ばれたと伝えられています。
 道本平とは笠岳のすぐ東に位する山の麓は一名を木曽の城とも呼ばれ、平石の沢の奥、滝平石といわれる滝の上のゆるい斜面で、中野からここに通じる道がどうふん道です。 越中野から滝の沢の峠を越えて、とんび岩、かやの沢、さかいの沢の中腹を経て、三ツ又沢、寒平、タコチ原から池の平(山田牧場)の上部を通って道本平に至ったといわれています。
 藤澤治郎左衛門と片桐小太郎の2人は西見合野の関口を守り、窪田藤六郎と安田治郎の2人は強力な百姓を随えて越中野口で糧米と隠れ家を守りました。
 世の情勢を窺うため藤澤治郎左衛門の子・藤澤四郎頼親と窪田藤六郎の子・窪田七郎長義の2人は、賤しい姿に扮して鎌倉に忍び入って様子を調べたりしました。
 しかし文治4戌申年(1188年)7月25日に木曾義基が病気で亡くなたっため、母は尼となって越後に移って行き、窪田藤九郎が従ったといわれています。


【木曾ノ城山】

木曾ノ城山
 民有地。大字山田入の内
 高さ450丈、周囲未だ実測を経ず。本村の寅の方にあり。 嶺上より二分し、北は平穏村に属し、南は本村に属す。
 山脈、東は横手山に接し、西は笠嶽山に連る。樹木少なし。
 渓水2條、1は中間より発し、南流し、字平石にて瀧に懸れり、北瀧を平石瀧という、下流山田川に入る、長さ20町、幅4尺。 1は頂上より発し南流、山麓にて山田川に入る、長さ20町幅4尺。
『長野懸町村誌』より

奥山田村絵図
↑木曽の城山
【奥山田村(絵図)(明治18年)】長野県立歴史館蔵(クリックすると拡大表示します)
 掲載許可者:長野県立歴史館(平成24年3月7日)

諏訪神社

諏訪神社秋宮本社←諏訪神社
 義基の没後、村人は蕨野(蕨平)の地に義基の霊を崇め、名前を変えて諏訪大明神と奉って祭祀しました。
 家臣の藤沢太郎は荻窪(荻久保)の東の日和城(牛窪地籍)に、安田次郎は桑原山の麓(屋敷平)に隠れ住み、片桐氏は向城(鎌田地籍)に住み着き、窪田氏は久保田と改めて中山田に移り住んだと伝えられています。

歌碑

木曾義基の歌碑  平成9年(1997年)、義基公の詠歌を刻んだ碑が有志によって諏訪神社境内に建立されました。

 阿めは不る
道は王ら比の
  山し奈能
 笠取山や
  いづ蓮奈るら無


『倭田邑縁起』

上空から見た奥山田
↑上空から見た奥山田
 空中写真は「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」を元に作成

安田主水翁遺徳碑  蕨平は安田氏によって開発され、庄屋を務めた安田主水は鎌田川から用水路「鎌田堰」を引いて新田を開設したと伝えられ、諏訪神社境内の隅にその徳を称える遺徳碑が建てられています。
 関場は藤澤氏や山崎氏によって開発され、宮村は藤澤氏と片桐氏、松本氏によって開発され、天神原は望月氏や安田氏、藤沢氏によって開発されたと考えられています。

奥山田の歴史の記録として天神原区の藤澤家に『倭田邑史』、枡形区(旧矢崎)の片桐家に『倭田邑縁起』、堀之内区の藤沢家に『倭田邑記録』という村縁起が残され、この三書にはいずれも『木曾義基伝説』が含まれています。
 このうち藤澤家に伝わる『倭田邑史』には「安田家が代々書き記してきた覚え書きの中からあらましを書き抜いた」と記載されていることから、もともと安田家に伝えられていた覚え書きなどを藤澤氏が書き写し、さらに藤澤一族の伝説を書き加えて『倭田邑史』ができ上がったと考えられます。

原滋は「倭田邑縁起」の中で、伝説中の藤澤治郎左衛門清親について伊那郡の出身と記されていることから、藤澤氏は高遠町(現・伊那市)の藤沢郷(あるいは藤沢の庄)と呼ばれた歴史の古い土地出身の可能性があり、片桐氏は下伊那郡中川村の旧・片桐村(古くは片切郷)の出身の可能性があると推定しています。
 また『木曽義基伝説』の原形は『清水冠者物語』であると指摘しています。


『清水冠者物語』

室町時代に源義仲(木曾義仲)の子・清水冠者義高(しみずのかんじゃよしたか)と源頼朝の長女・大姫の悲恋物語が作られました。
 寿永2年(1183年)3月、挙兵した木曾義仲は対立した源頼朝に嫡子・清水冠者義高(『吾妻鏡』では「義高」、『尊卑分脈』では「義基」、『平家物語』では「義重」となっている)を人質として差し出すことで和議が成立し、義高は頼朝の長女・大姫の婿という名目で鎌倉へ下りました。
 その後、上洛したものの京の統治に失敗した義仲に対して頼朝は源義経らを代官とした義仲追討軍を派遣し、元暦元年(1184年)1月、義仲は宇治川の戦いで追討軍に敗れ、粟津の戦いで討たれてしまいました。
 元暦元年(1184年)4月21日、頼朝が義高を誅殺しようとしていることを知った大姫は、義高を密かに逃がしてやり、義高は大姫が手配した馬に乗って鎌倉を脱出しました。
 しかし夜になって事が露見し、激怒した頼朝は大姫を幽閉して義高を討ち取るよう命じ、義高は4月26日に武蔵国で追手に捕らえられ、入間河原で討たれました。享年12歳。
 義高の死を知った大姫は嘆き悲しみ、後を追って自害してしまいました。
 義高と大姫との悲恋は後世の人々の哀れを誘い、これを題材にして創作された物語が『清水冠者物語』です。


高村庄五郎は「奥山田村は落人の隠れ里 縁起録」の冒頭で、「『邑起録』は藤沢・片桐の両氏族を村の雄族として子孫に伝えるべく記録された家伝秘録である」としています。
 しかし、つい最近まで”日本のチベット”と呼ばれていた辺鄙な山中に、一族の正統性の証とする『木曾義基伝説』を挿入して村の歴史を書き記した教養人が存在していたことは確かです。


参考にさせていただいた資料

最終更新 2012年 7月25日

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