高井野の歴史中野騒動

「中野騒動」

明治初期に勃発した北信最大の農民一揆「中野騒動」について、大正2年(1913年)に長野県上高井郡教育会から出版された『長野縣上高井郡誌』の「中野騒動」に関する記事と、金井明夫氏が『高井』に寄稿された「中野騒動記」から引用します。


中野騒動

中野騒動の誘因と見るべきもの三あり。
 一は明治元年来農事兎角不作のみ続き民力疲弊し、米価を始め諸物価騰貴したる折柄、時の代官高野大参事が苛税を課し、度重れる人民の哀願は空しく却下されたるにあり。 抑も上納率は当時一両に米三斗を普通相場とせり、然るに俄に中野縣の置かるるや、一両に二斗八升とせるなり。
 一は商社廃止の要求たり、商社とは、旧来備荒貯蓄として倉米を積むの制なりしを廃して、金円の積立となしたるものにして、其金円を郡代等に於て預り、高利を以て他に貸付け、窃かに暴利を貪りたりしかば、下民の激怒を招きたるなり。
 一は飯山・松代等の騒動に人心動揺しつつありしによる。

先ず明治三年十二月初旬、一般民衆の叫喚甚しきより、町役人外一同是非なく連名を以て石代値下げの請願書を奉り、次で同月十九日再び嘆願せり。 然るに其日の午前、縣庁より役人数名高井野村名主織右衛門方へ出張し、大組頭重右衛門初め一同を集め、人心鎮撫の訓戒を与えたり。
 時に支配内なる井上村の博徒某なるものあり。 専ら觸頭の役目をつとめ、一揆の事を密計し、同日一方は中野町に至り、暴動来を放言し、一方は高井野に来り、田圃の藁鳩に火を放ち、騒動起こると絶叫し、人心を惑乱せり。
 高井野村久保組にては、死亡者の火葬を行へつつありしが、其火は藁鳩の火と合し天に映ぜり。
 之を見たる井上村にては、高井野よりも騒動起れりとなし竹槍・鳶口等を研き立て、炬火打ち振り、数多の人民は中野を指して出発せり。
 こを見たる高井野村の住人は、事不意に起れることなれば驚愕し、重右衛門・織右衛門は事重大なりと、急ぎ鎮撫に着手せる時は、既に井上・高井野の人民の一団は、勢凄しく沿道各地の人々を唆しつつ、雲霞の如く成先にと押し出せり。 茲に高井野村の大組頭重右衛門は、一身を賭して其を取り鎮めんとせしも、久保幸蔵等は、葬儀の振舞酒に酒気を帯べるに、堀之内組及千本松組の両酒造場にて、茶碗酒を仰ぎし事とて、泥酔理非を辨ずぜず、酒気をかりて荒れ狂ひ、更に言を用ふべくも非ず。 今は詮方なしと、村方の固めに尽力し一方民心の鎮撫に力めたり。

蜂起せる人民は二手に分れ、一隊は遠徳より中野に、一隊は六川の下より別れて草間・片塩・七瀬を過り、壁田へと押し行きぬ。

時に中野縣設置以来僅に四ヶ月、民情に通ぜぬ縣官は、ことを聞きて驚愕し、自らは官服を纏ふて役人を指揮し、大属大塚政徳をして、中野町の入口に出張せしめ、之を説破せしめんとせり。 而も一揆勢は騎虎の如く、直ちに酬ゆるに石礫を以てし、遂に之を殺すに至れり。 斯くして一度鮮血を見たる衆々は、一転して乱民と化し、素封家・有力者の家を焼き払い、炎々たる猛火に物凄き笑を作り、縣庁に達するや、門番小兵衛を火中投ずるなど、凶暴至らざるなし。
 高石大参事等は、六川の椎谷藩出張所に救を求め、上納金を委託し、小布施村高井鴻山方に宿泊せり。 此処にて、夫を追撃し来れる暴動の一団と大参事一行との間に折衝あり。 結局暴徒より、代表者を出さしめ、其任に当たらしむ事となり、重右衛門・織右衛門外三名と大参事との間に、十九日夜より廿日にかけ、数回の交渉あり、『願の趣委細聞き届く』との回答の下に解決を告げ、廿日正午頃、此一団は勝利を祝しつつ、中野に引き返しぬ。

此間に乗じ、高石大参事は、六川領より須坂藩をへて松代藩に急を避く。

此にて落着せんには、只数十戸の罹災にて済みたるを、交渉中、暴徒一団は中野より道を北にとり、放火・強奪等をナシ、到る処に其数を加へ、金井・赤岩及岳北一帯、進んで下水内郡水澤八ヶ村に於て荒れ廻り、特に木島に於は多数の暴徒を加へ、野澤に向ひ、かくて山の内をへて、大挙中野に引き返すあり。 亦中野に於ける一揆は、あらゆる暴行をなし、中野の大部分は焼土と化し、惨状目も当てられぬ有様となれり。

此騒動は十九日より廿一日に亘り、國中の騒動中最も猛烈なりしを以て、朝廷より臨時処置として、当時松代に出張中の民部大丞林友幸を中野縣権知事に任命し、信濃の諸藩に出兵を命じ、此等諸兵を督するが為め、兵部権小丞澤宣種を巡察使とし、長崎縣知事井田讓を参謀として出張せしめ、更に民部省よりは、大丞吉井徳春・権火丞福原復孝・庶務少祐武田信順・庶務大令関口久照等を、 刑部省よりは彈正少忠渡渇驥を主任に、中山彈正権少巡察・北代庶務正・大久保庶務大祐・石井庶務少令吏等を出張せしぬ。

斯くて暴動加味の嫌疑にて、一時一家・財産共差押さえられたる者五人ありき。 本郡にはなし。次で暴動誘引者と目されて、先ず召捕られしは、赤岩村名主江口曾榮門たり。其召捕るや糾弾に務めたれど、更に服罪の様子なし。
 かくて調査の役人は如何にもして、暴動の発頭人を得んとせしも、何れの辺より導火線の起これるか、其出所に関しては、殆ど捕捉する所を知らず。
 されど少々共、其巨魁とも云ふべき表面的の人物無くては、朝廷に対し言訳立たずと、相当の資格ある者に捺けんとし、先ず当時一流の資たりし、江口曾榮門を当てんとせしも、服せざりしより、転じて高井野村に迫りぬ。時に明治四年一月七日のことなり。

先ず名主織右衛門方に於て、大組頭重右衛門を召出して取調べ、翌八日是も非もなく両人を縛し、外四十余名を縛せり。
 之れと同時に、支配内各地より数百名を捕縛して中野に拉し来り、手厳しき拷問に掛けて、罪状を糾したりしが、重右衛門更に冤罪に服すべくもあらず、終に二月廿七日、名主織右衛門以下六名は斬罪に、二十二名は絞刑に処せられ、其他の百十五名もそれぞれ軽重こそあれ所罪せられぬ。

亦重右衛門は、服罪せざるにかかはらず、理も非もなくなく斬罪に言渡しをなし、処刑と定めぬ。
 あはれ冤罪に一名汚衂の錆と消えんとして、今や刑場へ引き出されんとせる時、通知に接する長子久保田慶祐は親戚と共に来り、役人の専横・横暴の処置を憤り、河原の又五郎を依頼し、権大丞林友幸へ事実質問せるに、辛くも斬罪を免かれ、当分延期となりぬ。
 然るに傷疾・諸病原因となり、三月中牢死せり。

今重右衛門・織右衛門の性行を見るに、織右衛門は身名主の職にあれど、少しく文盲の厭ひあり。 且つ老衰して、甚しく好人物なりし事とて、大組頭重右衛門力を借るを常とせり。
 重右衛門は、又之に引きかへ、剛壮にして、勇邁の資に富み、義侠心を帯び、名望嘖々たる人なりき。然るに両人此の最後に遭遇す、誠に同情に堪えざるなり。
 「中野騒動」より


御仕置

二月二十七日卯刻より快晴、此日死罪、朝早く役人一同御出役様の御案内致す。 彦兵衛殿・儀十郎殿・辰三・惣助・正太郎・政平・平作・惣右衛門(註中野町松川村の三役人)右の人にて御仕置場へ出張、与五郎殿会計留守。 儀平殿は東江部へ参られる。 御出役内海様・喜水六雄様・植村様右の御方牢の口にて口書読聞せ、 斉藤様(大属、水戸藩出身で剣の名手)大島様死罪打首六人、 首ククリ二十二人程、都合二十八人、あとは徒刑人百二十人程もこれある様子。 此日見物の人群衆諸方より参る。富沢屋粂吉宅にて一同大酔。
 金井明夫「中野騒動記」より


引用資料

最終更新 2020年 3月12日

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