↑標高六千尺の峠を越えた小串鉱山跡に祀られている小串地蔵尊(六千尺地蔵尊)
群馬県道・長野県道112号大前須坂線の毛無峠(1,823m)から群馬県側に下ると、1971年(昭和46年)に閉山した小串硫黄鉱山の跡地に建てられた御地蔵堂に、1937年(昭和12年)11月11日に発生した地滑りで亡くなった245名の菩提を弔う地蔵尊が祀られています。
地滑り災害救助に出動された荒井原の松本小市氏が『長野』に寄稿された記録と、小串鉱山の資料などを紹介します。
『お地蔵
うらがれてゆくおそ秋の
まこと静なりし小串の里に
悲しみをうずめ
なきがらをうずめ
硫黄の山の土と帰せし二四五のみたま
爾来
菩提の鐘の音と共に
「南無阿弥陀仏」が
声もなく流れつづけてはや
数十年
生者必滅 会者定理
これぞ浮世のおきてとは寂然の思ひ胸をつく
愁傷消えやらず
黄泉の君たちの声地底より
いまだ聞こえつづける思ひしきり
嗚呼
詩 牧加代』
←天空の廃墟で殉難者の菩提を弔う六千尺地蔵
↑小串御地蔵堂内部に掲示されている小串御地蔵尊の由来
小串『御地蔵尊の』由来
静寂なもと、鎮座します『御地蔵尊』は、一九三七年(昭和十二年)十一月十一日
突如の変災、「山地滑り」による、殉難者『二百四十五名』の御霊の安らかな眠りを祀
るご本尊として翌年八月十三日に、山岳地を凌ぎ謹みて建立されたのであります。
身の丈一八〇cm、台座から頭頂まで二七〇cmで、重量一,000kgです。石質
は御影石で、由緒ある産地で祈りを捧げ採取されたものです。
建立者は、小串鉱山経営者「北海道硫黄株式会社・代表取締役 古川 俊雄氏」等
誠の心を込め建立されたのであります。
古川 俊雄氏ご令嬢「法務大臣 森山 真弓様」青春期に参拝。大臣は、ハンセン
病患者の救済で熊本地裁判決を支持、政府の上告を断念させ、英断により平成十三年
五月判決を確定、世間に広く、感動と福音をもたらしたのであります。
『御地蔵尊』の刻石は、東京青山斎場、石匠「石勝」名人が、御霊の慰霊を唱えな
がら斎戒の上精進しての刻石です。お参りすることにより「御霊」のご加護で『根性
と力が授かり』厳しい社会を、強く生き抜き、「家内安全・祈願達成」の守り神でも
あります。ご利益多きを信じ、皆様大勢の参拝を希望いたします。
合掌
御地蔵堂は標高千六百五十メートル所在。しかし毛無峠が標高 千八百二十三メートルで六千尺の御地蔵尊。清新な高原奥山に鎮 座する御地蔵尊で『根性と力の授かる』由縁である。 群馬県吾妻郡嬬恋村大字干俣二四〇一番地に所在する。 |
---|
←小串御地蔵堂の板壁に掲示されている「六千尺地蔵」の謂れ
お地蔵さんの「謂れ」
毛無峠(一八二三米)を越えた深山に
鎮魂、「六千尺地蔵」さんです。
清浄地で、殉難者を祀る御地蔵さんです。
世の中の平和を守り・家内繁栄・「根性と
力」、授かります。
ご利益を心から願望し精進されての
参拝をお勧めいたします。
小串地蔵堂
松本小市「小串鉱山の災害」より(抜粋)
それは昭和12年11月11日の午后3時40分頃でした。私は水田の収穫の跡しまつをしていました。 どんよりとした晩秋の空、風は少なかったと思う。突然に「どーん」という大きな音が、東南の方向に起こりました。 (私の村の荒井原の辺から見て)この方向には浅間山があって、私の若い頃には、この様な空もようの時にはよく爆発があって、噴煙が空高く上るのが、山の上に見えたものでしたが、その日は何も見えません。 夕方家に帰ると、まもなく消防団からの通知で、小串鉱山に大災害があったということがわかりました。 そして夕食後8時の集合、ということで鉱山への出動が伝えられました。
ここで小串鉱山の概略を説明しますと、大正年間に村内の人に依って発見され、旧高井村の地籍で採掘されていた。 その後に移り変わって、北海道硫黄KKとなり、群馬県側に移り、小串鉱山と称されて、その産額では、日本内地で第一番の量と質を持っていたと、聞いていました。 従って従業員も多く、住宅街もあり、小学校の分教場もありました。交通の便は高山村(当時高井村)の樋沢より林道を上って行きました。 又索道があって、物資を送ったり、産物の硫黄を搬出していました。索道の長さは10km位でしょうか。樋沢の中継所からはトラックで須坂の駅へ出していました。
さて私たち消防団員は、樋沢の中継所に集まりましたが、委しいことはわからず、日赤の看護婦さん達と合流して、夜の9時頃に鉱山に向って出発しました。 月は無く闇の山道を只もくもくと登って行きました。索道や電話線もこわれていて役に立ちません。 看護婦さん達が皆元気で歩かれるのには感心しました。登って行く程に山の上に稲光りのような光がちょいちょい見られました。 何の光かわからず、不思議に思い乍ら歩きました。やっと県境の峠(毛無峠)を越して、(明るい時ならこの峠で情況がわかるのですが)、鉱山に着きました。午前3時半頃と思われます。約12km位でしょうか。
火災の残り火はまだ燃えていて、その向う側は山津波の土石流が押した跡で、物凄まじさは全く言葉の外でした。
多くの人たちが土の底に埋もれたのでしょう。又負傷者や逃げおくれた人は、火災のため殆ど焼死され、手当をする様な人もなく日赤の看護婦さん達も仕方がありません。
火薬庫のあったと辺といわれる場所では、ダイナマイトが散らばっており、たまには火をよんで燃えたりしていました。登る途中で見た光も、多分これかも知れません。
明るくなるには少し間があるので、残った倉庫の中で、吾々消防団は仮眠をとりました。
明るくなってから、災害現場をよく見ました。山津波と言われるものでしょう、一面に土砂の原となっています、其の辺は辺は硫黄の精錬所や、分教場や講堂や事務所それに住宅街もあった、と聞きました。
其の巾70m位、長さは200m位でしょうか、厚さは何mかわかりません。
その終わりのところには精錬の鉄釜の大きいのが横辷りににきて止まっていました。その辺の土の深さは3m以上もありました。その土砂の中に何百人かの人達が埋れているのだそうです。
又火災は住宅の辺を主に土でつぶされたわずかに残った、その材木にはさまれた人達が、そのまま黒焦げとなっていました。綿にくるまった赤児の体の炭となったもの等、とてもとても言葉や文字ではいい切れません。
手の施しようがないとは、こういう時のことでしょう。
(後で聞いたのですが手や足をはさまれた人が片方取れてもよいから引きずり出してと叫んでいたが、どうしようもなかったと)。
でももう一方の住宅街が無事だった。これがせめてものことでしょう。
鉱山の人達の親切の炊き出しで腹ごしらえをして、私たち消防団員は、下山することになりました。
毛無峠(鉱山の裏側で鉱山より150m位高い県境)に立ってもう一度良く見ます。
その発生地となった場所はたいした変りはなく、どうしてあの大量の土砂を押し出したかと思われます。
(これは後に現地にいた人に聞いたのですが、隣にあった山の出鼻を一つけづって行った、ということです。)
又残った住宅街となっている場所の地形を見ると、これもいつの古代にか山津波で出来た場所と、私は思います。その巾100m位、長さ200m位もありましょうか。
硫黄というものは、岩石の中に含まれていて、鉱山としての事故等は殆どなかったのですが、思いがけない、地質的な原因によって、この大災害となった事は、お気の毒にたえません。
途中は索道のやぐらの潰れたのや、鉄線のはずれて、うねっている、搬器の散らばった有様等、実に物凄いものでした。
この鉱山には索道の技師で、佐々木さんという、日本でも有数の人が、樋沢の原動場に居られました。
この技師さんのお陰で、索道が先ず一週間位で復旧しました。其の索道のお陰で、災害の処理にも大助かりと聞きました。
当時の情勢は、硫黄は大切な資源でしたので、会社の方でも、全力をあげて遺体発掘を急がれたのです。それでも長い年月がかかったようです。
そして発生地の付近に地蔵尊を建立され、その台座の廻りには、災害で亡くなられた人の名を、銅板に彫り込んで祀られてあります。
会社では大きな犠牲を払われて、復旧に尽力され、其の後は益々業績を上げられ、鉱山の全盛時代が終戦まで続きました。
ここで災害余地について、私が聞いた話を少し申します。 私の隣にウ町さんと言う方がおられます。この人が臨時に鉱山に働きに行かれておりました。しかも発生地となった場所で水道工事を手伝っておられましたが、その一週間前に下山されて、災難をのがれた人です。 この人の話で、導水管の工事をするのですが、翌日行って見ると、前日の工事が動いていた、ということです。何日もそんなことがあったそうです。 それが災害の発生地だったのです。今の時世なら、地滑り予知で大変なことですが、昭和12年当時では、まだ関心がなかったと言えるでしょう。 又馬についても話されました。其の頃に馬を引いて毛無峠を越えようとしたが、馬は峠より小串側へは、行きたがらないで足踏みをしていたと、考えるにすでに地下磁気には何かの変化があったのでしょう。 又樋沢の中継所の庭でも、馬は電動機の附近では、感じて足の動作がわかると、言われました。 こういうことは動物の方が人間より敏感だと思います。
災害発生前の小串鉱山 昭和11年前後(『小串鉱山史』より)
点線で囲まれた範囲が山津波の土砂で埋没した(『小串鉱山史』より)
土砂災害後の惨状、右の高台に残されたのが山神社(『小串鉱山史』より)
↑小串鉱山跡地の慰霊碑と施設
『小串鑛山旧跡
心のふる里
御地蔵堂改築記念
元小串鉱業所長 長江克美書』
←「お地蔵」詩碑
←六千尺地蔵尊を祀る小串御地蔵堂
←小串物故者慰霊碑
←「寄り添い地蔵尊」
小串で亡くなった人の斎場跡に祀られていたものが移転された
←「寄り添い地蔵尊」の由来
↑毛無峠から小串御地蔵堂に至る近道(カシミール3Dで作成)
県道112号は群馬県側が通行止めで車両は通行できない
↑土鍋山山頂から見下ろす小串鉱山跡地
↑小串鉱山全景(御地蔵堂内に掲示されている写真パネル)
上:昭和46年6月『小串鉱山閉山時』の全景
下:昭和38年頃の小串鉱山全景
↑「小串夜景」(御地蔵堂内に掲示されている写真パネル)
↑小串鉱山山元から索道で硫黄を搬出(昭和10年ころ『写真が語る高井の歴史』より)
↑小串鉱山住民の運動会(昭和10年ころ『写真が語る高井の歴史』より)
↑「小串鉱山(昭和46年6月)施設概略図」 石碑
←鉱床平面図と毛無隧道(「輝ける「
1953年(昭和28年)10月に峠の下を貫く毛無隧道1332m(幅3m×高さ2m40)が開通し、峠を登り下りせずに長野と群馬を往来できるようになった
↑小串御地蔵堂等改築事業記録及鉱山概要録石碑
鉱山の概要
北海道硫黄株式会社小串鉱山
鉱染交代鉱床 鉱石品位遊離
硫黄分平均 37%
鉱区面積 2,64粁平方米
埋蔵鉱量 約1,000万屯
標準年間採掘量 15万屯
焼取精錬設備 25基
湿式蒸気精錬設備 1基
標準硫黄月産量 2,700屯
索道輸送小串樋沢間 10,8粁米
人口最盛期 2,100名
従業社員数 675名
村立小串小学校卒業生 778名
村立小串中学校卒業生 544名
在職先生 15名
村立幼稚園卒園児 182名
↑【小串鉱山の経緯】(御地蔵堂内に掲示されている資料)
最終更新 2021年 7月30日