高井野の歴史中野騒動

「中野騒動」余聞

「中野騒動」に関して伝えられてきた話です。


柳沢の聞書き

1.他の村では一軒か二軒焼かれただけで済んだが、柳沢では百軒そこそこの処で実に九軒に及んだ。 当時の柳沢は越後方面からの上州街道、善光寺街道の要衝であったため、富の程度も比較的高く、権力の座との繋がりが多かったばかりか、博徒等の悪分子も居たので、それやこれやに禍された結果と思われる。 千曲川の船問屋が二軒、湯田中で女郎屋を持ったのが一軒、名主庄屋百姓代大組頭等を勤めたのが其の他であった。 拙宅は大組頭で柏原の本陣六左エ門と関係があり、その故か焼かれた。

1.拙宅が焼かれたのは真昼中で、土蔵と母屋との間の冬囲いにしてあった藁に放火されたのでちょろちょろと火が家の方へ及んで来るので、 消せば消されると思ったのだが「叩き殺すぞ」と脅されるのでつい消せなかった、とは五十年前に七十三才で死んだ祖母の話。 また焼あとのある土蔵の戸も其侭になっている。

1.山道と桜小路を間違えて下から二軒目と云うので何の役職でもないのに焼かれてしまった気の毒な家もあった。

1.騒動の来るのが予め判ったものと思われる。 其の訳は源太夫さんでは瀬戸物を池に沈めて置いたから、家は焼かれたが陶器類は全部安全であったそうな。

1.皆出ろ出ろと扇動されたので若い者は全部参加したそうだが、 途中で道端の雪隠に入り、こっそり逃げ帰った物もあった。

1.大下(おおしも)の定吉は首切人であった。処刑の朝ふと見た書類に村の総代・菊十郎の名前があったので抜き取って懐へ入れてしまったので難を免れた。 彼は一生定吉を徳としたとの話、そう簡単にうまく行ったとも思われぬが・・・。

1.時の総代・山本菊十郎は焼かれなかったが、処刑リストにのっていたことが本当だとすれば暴徒と何等かの連絡があったとも考えられる。

1.回船問屋は船積の荷を一時的に預る処で何%かの歩合がもらえた。 土間が広く且つ入口が高く、広く、荷をつけた馬が其のまま土間へ引き込むことが出来たとのこと。 最初は一軒であったが源太夫が運動して半分の権利を取ったと伝えられる。

1.家が多く焼かれたのは暴徒の一部と連絡のあった村の人が居た為で、取調べられた七兵衛・広吉は其の代表者だったとも言われた。

1.七兵衛、広吉の子孫が誰であるかは今のところ不明です。 広吉は大工で幸之助さんの近所に住んでいたと云った人がありましたが、確かではありません。

1.真偽もとより不明だが、一の割の某は、坪山の増右衛門という財産家の金蔵から、履いて行った踏込(わらぐつ)に金銭を一杯入れて持ち帰り、それを資本にして財をなしたと云われる。

(畔上案山)


延焼を防いでくれた話

市川酒屋の焼かれた時、すぐ道一本北に武田さんの家があり、藁屋根にどんどん火の粉が降った。 その時、紫からきた押して来た騒動の衆がねこを引っ張り上げて水をかけ、火の粉を防いでくれた。(古老談)

市川家の隣の押鐘さんの家人は、騒動がくると庭に頭をすりつけて「焼いてくれるな」と頼んだら「悪いことをしない者をだア焼くもんだ」とどなって走りすぎて行った。

山田庄左エ門さんが焼かれた時も、すぐ近くの家へ火がかからぬように、その衆が防いでくれた。(山田賢吾氏談)

柳沢の町田さんの家が焼かれたときは、暮れのことで刈り入れた萱が家のまわりへ沢山立てかけてあった。 通りがかった騒動の衆が面白半分に松明で火を放けた。(故・町田八郎氏談)

縛り首に使うための分銅を三才の鍋屋で作り、四人でかついで中野まで運んだら、役人が一人で出て来て受取って「よいしょッ」と奥へ持って行った。 役人というものは力のあるものだ、と年寄りの話。(南典子氏母氏談)

三才の山から見たら、松明の火が満ち満ちて北へ北へと動いて行くのがきれいだった。(小野沢良秀母談談)

中野県庁を善光寺へ移すため、囚人が大勢出て、書類などをかついで三才の村を通った。 頭を半剃りにしていたので「半ずり坊主」と言った。(小野沢良秀母談)

大塚政徳が殺される時「ふところ鉄砲」を出して振り回したという。(小野沢光広氏談)

打首になった時、遠くから見ていると、丁度箕を立てたようで、少しするとパタンと転んだ。(阿部定清氏祖父談)

(竹原 小野沢良秀)


篠田佐賢と騒動

これは私の姑が又その姑から聞き伝えた中野騒動のこぼれ話です。

明治三年十二月、新政府となって、多くの百姓は「これで暮らしも楽になる」と大きな期待をもっていたが、一向に楽になる様子がないので、上高井の紫という所に端を発した騒動が、次々と仲間を呼び、次第に近づいて来た。 当主の佐賢(市左エ門)は少しも動ずる様子はなかったというが、奉公人達は火災を案じて、家財道具を分家の五左エ門の家へ預け、また米をすくい出して村の女衆に頼んで炊き出しをして、暴徒達に供して何とか鎮めようと計ったが、ついに徒労に終わり、門を二つ三つ叩かれたと思ったら、間もなく火の手が上がり、見る見る炎上した。
 女子供は五左エ門のところへ逃れたが、家財道具を運びこんだのが分かって、ここも焼かれ、皆はほかの家へ逃れた。 分家の喜七の家にも火をつけたが、水車をやっていて、百姓の米を預かっていることが分かったので、急に消してくれたという。
 佐賢は火災さわぎを後に、息子の修輔や長島某、竹内林左エ門、竹内庫蔵、篠田宇三郎などを連れて陣屋へ駆けつけて、お金や重要書物を救い出し、山田峠を越えて須坂へ難を逃れたという。
その功績によって、後で県から赤ゲット一枚と金二千匹をいただいた。 今の金にしてどの位になるか知らないが、その時の包み紙や賞状が残っている。
 また騒動見舞帳も残っている。
 沢庵  三拾本  村 直蔵
 牡丹餅 一重   羽場村 藤左エ門
 味噌  四貫目  握り飯  二タ櫃 岩舟村 町田八兵エ
 水桶  一ケ   牡丹餅  二タ重 命徳寺
 皿   二拾枚  とうしん
等々記載されている。これらを見るにつけ、百年の歳月の流れを思い、感慨一入である。

(西江部 篠田明子)


焼けた塩鮭

私の先々代・平九郎の時代で、布袋屋といって郷宿などもやっていたらしい。 陣屋に近かったので真っ先に焼かれた。 隣の角に和泉屋元兵衛という魚屋があった。 これはうちの親類だが、歳取りの塩鮭などいっぱい仕入れておいたら、家ごと焼かれてしまった。 翌日後片付けをしていたら、真っ黒の焼き魚いっぱい出てきた。
 山田庄左エ門さんから米一俵をいただいた。 そのほか諸方からのお見舞には、むすび、たくあん、みそ、酒、炭、凍り豆腐、茶碗、黒豆、縄、二寸釘、塩、たきぎ、餅、杓、網たわし、足袋、包丁、丼、砂糖などいろいろな生活用品をいただいている。

(東町 山口庸二)


処刑

私の祖母は中野市(旧延徳村大熊)の佐藤という家から、明治初年に須坂市の西貝幸八(須坂藩の鐘番)の倅・梅之助へ嫁いだもので、よく大熊の青木、中山、酒井など各家につながる話や、飯盛松の話、須坂藩から会津出兵の時、早鐘をついた話、それに中野騒動の話など寝物語に聞かされ、うろ覚えだが覚えている。
 私の八歳の時(大正四年)祖母は亡くなったが、騒動の処刑を見に行った話をよくしてくれた。 大勢の罪人が処刑されるというので村の人達と、お仕置きを見に行った。 十三歳の時だという。
 恐る恐る人々の間にはさまって、人垣の間からお仕置きを見た。 罪人達は皆うなだれて泣いていた。 中には大声で泣き叫ぶ人もあった。 一人の若者は元気がよくて、ペッペッと唾を吐きながら「どうせやるならすっぱりとやっとくんなさいよ」と叫んだという。 鮮血がパッと虹のように噴いて飛んだ。 その様相のすごさに祖母は居たたまれず、逃げ帰ったが、三日三晩も飯がのどに通らなかったという。 赤飯を見るたびに気持が悪くなった人もいたそうだ。

(須坂市 西貝篤)


嘆願

明治7年(1874年)7月20日に、懲役人6名(中村久右衛門、太田広右衛門、小山奥之助、藤沢為吉、小出長左衛門、松本栄蔵)の親類から、長野県参事・楢崎寛直宛に受刑者の懲役免除願いが提出されている。
 「自宅では病身・盲目の兄弟・独り者または妻子ばかりにて暮しているため、農業耕作も出来ませんが、重罪に服している身であるために、家内の者はじめ組合・親類の者は当惑しています。 贖罪金(体刑の代わりに差し出す金)を上納しますので懲役を免除してください」という内容であった。
 この夏は病気が流行し、働き手不在の処刑者家族にとっては、なおのこと厳しい状況におかれ、耕作も続けられないほどの困窮に追い込まれていった。


参考にさせていただいた資料

最終更新 2012年 3月 8日

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