高井野の地理>須坂基線

農道の脇に「三角点」の標識がぽつんと突っ立っています。
後方の禿げ山は一等三角点のある雁田山です。

↑『須坂基線』と最初の一等三角点「雁田山」、「井上山」
※この地図は国土地理院発行の「数値地図50000(地図画像)」と「数値地図50mメッシュ(標高)」を利用してカシミール3Dで作成しました。
明治維新によって近代国家の構築を進めた明治新政府は、近代化の一環として欧米の測量技術を導入して国土の正確な地図の作成を試みました。
当初はいろいろな役所で地形図及び関連成果が作られましたが、最終的に陸軍省参謀本部測量課(現在の国土地理院)の管轄となりました。
国土全体の測量をするにあたって「基線」を設定し、それに基づいて基線測量が行われました。
最初は明治6年に北海道開拓使によって勇払基線(北海道苫小牧市)が設定され、同11年には内務省地理局によって那須基線(栃木県那須西原)が、同15年には陸軍省によって相模野基線(神奈川縣相模國高座郡)が設定されています。
日本国内全体で14本の基線が設定され、そのうちの一つが1896年(明治29年)、長野縣信濃國上高井郡に設けられた『須坂基線』で、長野・新潟・福島・埼玉・山梨・岐阜の中部・関東地方の計測に利用されました。
「基線」の東端は高山村千本松に、西端は須坂市小河原に設定され、両点間の距離は 3,291.9120m と極めて正確に測定されました。

高山村役場の前の道路をまっすぐ須坂市に向かって下り、紫の集落を通過し、堀之内の四ツ屋の五差路をそのまま直進します。
「福島正則火葬場跡」の案内標識のある三軒家の交差点を過ぎると、道路右側の千本松の共同墓地の下に黄色い三角点の標識が立っています。
りんご畑とぶどう畑が広がる西側には北信五岳の山並みが聳え、北に目をやると山肌を半分削り取られた雁田山が痛々しい姿を晒しています。

標識には基本的なことが書いてあるだけで、『須坂基線』に関するものは何も見あたりません。
標識の根本には花崗岩でできた三角点の柱石が頭を出し、四角い枡で囲われています。
(平成21年12月27日撮影)

以前は周囲に瓦礫が散乱して永年性の雑草が繁茂し、歴史的に重要な文化遺産にしてはかなり粗雑に扱われていました。
(平成18年3月11日撮影)

国道403号を須坂から小布施方面に向かい、高畑の交差点を過ぎておいしい広場の先を左折します。
果樹畑の中の道を西に進み、広い道路を横切って長野電鉄の踏切を渡り、約300m先の十字路を右折すると右側のりんご畑の中に三角点の標識が立っています。
りんごの葉や下草が茂っている夏期には、葉の陰で見過ごしてしまいそうです。

三角点の柱石には「一□三角點」と刻まれており、角がかなり欠けて「等」と刻まれていたと思われる□部分は判別できません。隣には白いプラスチック製の柱が立っていて、「三角点」、「基本測量」、「大切にしましょう三角点」などと書かれています。

柱石の上部に、最近埋められたと思われる丸いプレートがありました。ucodeとあるので、ユビキタスIDのようです。

畑の所有者の方がりんごの苗木を植え替え中で、「仕事をするには邪魔だ」とおっしゃってました。
トラクターで耕したりスピードスプレヤーで消毒するとき、柱石にぶつからないよう気を遣っておられるようです。
(平成21年12月27日撮影)
「須坂基線」は美信三角網の基線として日本で9番目に選定され、1896年(明治29年)11月14日から11月20日にかけて観測されました。
基線場の選定者は陸地測量師・館潔彦、観測者は陸地測量師・関大之となっています。
計測には種々の測量機器が使用されますが、主に25mインバール基線尺とヒルカード式4m測桿が使用されました。
これらは36%から38%のニッケルを含有する熱膨張率の極めて低いニッケル鋼で作られ、基線尺は巻くことができますが測桿は棒鋼なので曲げることはできません。
測定は、約25m間隔で地面に約1mの高さの丸太を植立して3本の支柱で固定し、中心に指標を附した接点間を何度も往復して観測しました。
計測に要した日数は、準備から後片付けまで含めると81日かかっています。
これに要した費用は2,229円36銭で、当時の人夫の日当が18銭から28銭であったことから、相当の人員が動員されたと推定されます。
当地が選定された理由は、
(1)周囲の基線場(山形県、神奈川県、静岡県、滋賀県の4ヶ所)とほぼ平均的な位置になること。
(2)比較的平坦地で3kmくらいの基線が取れること。
(3)2点間の直線上に家屋、森林等の障害物がないこと。
(4)周囲の山々の見通しが良いこと。
などです。
(永田穣吉「五万分の一地図作成時の須坂基線について」より)
ご存知の方も居られると思いますが、私の住む三軒屋組の近くで、千本松区の墓地の下の原野は、以前は相当に広いところで、その中程に三角点がありました。
しかし、度重なる道路拡張工事で、今は道路すれすれの場所にあります。
何のグループか大勢の人達が訪ねてきて探しているので、そばの畑に居た私が三角点を案内したことが二度ほどあります。
『広辞苑』によると三角測量の基準点で、それを結んで全国を覆う三角網となり、一等から四等まであったそうです。
明治時代だと思いますが、旧陸軍参謀本部の兵士が高い櫓を立てて、この場所を基準にして測量をしたとか。
三角の支点は鞍掛山の上、赤和の上の高杜山(紫子萩山)の頂上、日向山の峰、須坂の神田山(鎌田山)の上などにあると聞いております。
(この点については私も確認しています。)
余談ですが、測量をする兵士は、当時三軒屋の三角点に一番近い民家であった我が家に寝泊りをして、食事も我が家の家族と一緒にし、かと言って特別なご馳走もしなかったらしく、当時の農家の食事の不味さに音を上げたとか言い伝えられています。
(堀之内・篠原保夫「三角点について」より)

↑『須坂基線』を元に設定された一等三角点網
※この地図は国土地理院発行の「数値地図50000(地図画像)」と「数値地図50mメッシュ(標高)」を利用してカシミール3Dで作成しました。
「基線」が計測されると「基線」の両端から見通しの良い山の上に最初の一等三角点が設けられ、「基線」を底辺とする三角形が形成されます。
「須坂基線」の北側は雁田山(かりたやま)、南側は井上山(いのうえやま、国土地理院の地図には名前が表記されていない)の上に最初の一等三角点が設けられました。
雁田山と井上山の三角点が定まると、この点を結ぶ直線を底辺にして北の第二次増大点の髻山(もとどりやま、744.46m)、南の根子岳(小根子ピーク、選点当時の名称は”猫岳”2127.9m)とで基線三角点網が作られ、さらに第三次増大点として西の聖山(1447.15m)、東の岩菅山(2295.0m)へと拡大し、須坂基線を基とする一等三角点網が広がって行きます。
その後、周辺の妙高山、白馬山、蓼科山などを結んで拡大し、さらには県内外周辺の他の一等三角点を選点して拡大し、他の基線から出発してきた三角点網と結合して日本全体を覆う三角点網を形成します。
「基線」測量当時は見通しの良い原野だったようですが、現在は果樹園が多く建物も建っていて見通すことはできず、また雁田山の高山村側は大規模な採石工事で山の形が変わっているため、カシミール3Dで当時の景色を再現してみました。
↓基線東端から雁田山を望む
雁田山の三角点は採石場の進展によって1979年(昭和54年)11月、基線計測時に設置された場所から移設され、更に1989年(平成元年)9月に作り直されています。

↓基線東端から西端方向を望む
権現山(ごんげんやま、1222.6m、一等三角点)、陣馬平(じんばだいら、1257.5m、一等三角点補点)、白馬岳(しろうまだけ、2932.4m、一等三角点本点)、髻山が望めます。

↓基線西端から井上山を望む

↓基線西端から東端方向を望む

◎基線の上空から見える一等三角点のパノラマ

写真をクリックするとパノラマに移動します。
(「瀬戸の夜景」さんのスクリプトを利用)
| 点名 | 基線東端 | 基線西端 | 雁田山 | 井上山 |
| 基準点コード | TR5438729701 | TR5538020401 | TR5538021701 | TR5438724301 |
| 緯度 | 36°40′05.3229 | 36°40′28.8947 | 36°41′20.3316 | 36°37′17.8005 |
| 経度 | 138°20′27.2024 | 138°18′17.9025 | 138°20′23.4077 | 138°17′16.3631 |
| 標高 | 447.66m | 353.25m | 759.39m | 771.29m |
| 行政名 | 長野県上高井郡高山村 | 長野県須坂市 | 長野県上高井郡小布施町 | 長野県須坂市 |
| 所在地 | 大字高井字下原6305−4 | 大字小河原字別府山口南沖2369番地 | 大字雁田字沢入1346−1番地 | 大字井上字本誓寺3250番地 |
| 国土地理院 2万5千分1地形図名 |
中野西部(高田) | 中野西部(高田) | 中野西部(高田) | 須坂(長野) |
| 国土地理院 基準点成果閲覧 |
一等三角点基線東端 | 一等三角点基線西端 | 一等三角点雁田山 | 一等三角点井上山 |
国土地理院 基準点成果等閲覧サービスから引用
