高井野の歴史中野騒動

「中野騒動」と高井鴻山

小布施の豪商・市村家

信濃國上高井郡小布施村の市村家は、祖先の作左衛門が元和年間(1615年〜1624年)に浅間山麓の佐久郡市村に住んでいたことから市村姓を名乗ったとされ、後に小布施村に移り、創業は宝暦5年(1755年)と伝えられています。
 六斎市(ろくさいいち)を背景に富を築いて北信濃きっての豪農商となり、飯山藩や京都・九条家などの御用達を勤め、小布施を拠点に信州はもとより江戸、京阪、北陸、瀬戸内までも商圏とする大きな商いを展開しました。
 8代目・作左衛門は義侠心に篤く、慈善公共のためには惜しげもなく財を提供し、天明2年(1782年)から天明8年(1788年)にかけて発生した天明の大飢饉の際には、救済のために数千両を官に献金しています。 この行為に対して官から「高井」の名字と帯刀、宗門独出を許可されましたが、作左衛門は
『平民の家、何ら帯刀の要あらん、苗字は古来の市村にして足る。宗門帳は之を寺院に托するも妨げず』
と固持しました。 その後、11代目(12代目とも)高井鴻山になってこの資格を受けるようになったと言われています。
 明治3年(1890年)12月19日に勃発した「中野騒動」では、北信一帯の商社役員や富豪、豪商など多数が一揆勢に襲撃・焼き討ちされましたが、市村家は無事でした。 これは過去の飢饉の際に市村家が私財を放出して困窮者を救済してくれた恩に報いたもので、一揆勢は頭を垂れ、松明を傾けて通り過ぎていったと伝えられています。

高井鴻山

高井鴻山  文化3年(1806年)3月15日、小布施村の市村家10代目・熊太郎(30歳)と母・こと(23歳)の4男として生まれました。 本名は市村健、俗称・三九郎、字は士順です。
 兄たちが早世したことから市村家11代目として嘱望され、15歳から16年間、京都や江戸に遊学して国学、蘭学、漢学などを各界の第一人者から学びました。
 また勉学の傍ら花柳界で遊興を繰り返し、自ら「放蕩宗」と称して多くの友人を作り、松代藩士・佐久間象山、大塩平八郎、幕府勘定奉行・小栗上野介、幕府若年寄りや東京府知事を歴任した大久保一翁、勝海舟など幅広い人脈を築きました。
 天保7年(1836年)に起こった天保の大飢饉に際しては、祖父・作左衛門同様、窮民のために倉を開いて飢餓の救済をしています。
 天保11年(1840年)に父・熊太郎が病死すると鴻山は当主となりましたが、金銭面は弟に任せきりにして金儲けの丁稚仕事には手を出しませんでした。
←高井鴻山(「写真集須坂小布施高山若穂百年史」より)

岩松院の天井絵  晩年の葛飾北斎をたびたび小布施の地に招き、北斎は逗留中に祭屋台や岩松院の天井絵を完成させています。
←岩松院の天井絵(高井鴻山記念館パンフレットより)

 慶応2年(1866年)、幕府からの援助要請に従って一万両の献金を約束し、その功に対して百石無税地の特典を得ましたが、翌慶応3年(1867年)に大政奉還が行われたため、結局、莫大な借金だけが残ることになりました。

 この年7月、山田温泉へ向かう途中に崖から転落しましたが、木の枝に捉まってかろうじて助かるという奇禍に遭遇しています。

 明治3年(1880年)12月に「中野騒動」が勃発しました。


「中野騒動」と鴻山

明治三年、鴻山東京に出で大木喬任に由てしばしば、政府に建議し時務を論ず。
 此歳冬、郷に帰りしが中野人民暴動の虞あるを以て、書を馳せて之を高石大参事に告げ之を警戒せしむ。
 十二月十九日の夜に至り、果たして人民蜂起、県庁を襲ふ。其数六万と称す。
 大塚大属之を中野湯町の入口に防ぎ、終に斃る。
 高石大参事属官数名と夫人とを携えて小布施に来り、鴻山の家に投ぜしかば、鴻山乃ち微行して之が保護を松代藩に托せり。
 翌廿日暴民、高石大参事の後を追跡して小布施に進み、六萬余円の税金を蔵せる長持二箇椎谷藩(六川)の預かれるを知り之を奪いて火中に投ぜんとす。 鴻山別家市村戸右衛門、村吏林官蔵を指揮し、一方には税金上納の長持を擁護せしめ一方には酒食を調へて之を暴民に饗し、説くに大義を以てし、一歩も避けざりき。
 鴻山自ら奮て策を献じて、之が鎮撫に従事し、乱過ぐるや、松火を倒にして過ぎしと云ふ。
 当時家人、鴻山に勧むるに、其倉庫に珍蔵せる宝物の類を他に移し之を匿さんことを以てせしに、鴻山頭を掉て肯んぜずして曰く
『我家は、嘗て人民より怨を買ひしことあらず。宜しく門を開きて、彼等の為すが儘にすべし。倉庫も亦錠を下すに及ばず』
と。暴徒果して声を潜めて其門前を過ぎしなりき亦以て鴻山の徳望、甚だ盛なりし一班を察するに足る。
『長野縣上高井郡誌』第二十八章 人物伝より


晩年

 明治4年(1871年)に高井家を息子・辰二に譲り、明治5年(1872年)に東京府へ出仕するも2年で退職し、明治8年(1875年)に私塾・高矣義塾を開いています。
 ところが同年、遂に家は破産し、明治10年(1877年)秋には高矣義塾を閉鎖して小布施に帰りましたが、翌明治11年(1878年)3月には小布施の邸宅が大火に遭ってしまいました。
 それでも翌明治12年(1879年)には長野町の旭町に高矣義塾を開校しています。

高杜神社の大幟  明治11年(1878年)から明治15年(1882年)にかけ、生活のために近隣の村々の神社旗幟を30体ほど揮毫しています。
←久保区・高杜神社の大幟(複製)

 明治13年(1880年)、福島村(須坂市福島町)の大幟の完成祝いの席で中風を患い、明治16年(1883年)、78歳で死去しました。
 墓所は小布施の祥雲寺にあり、法名は耕文院泰賢鴻巣山居士となっています。

『鴻山は、幕末から明治維新の激動期に、その時局の変化に対応しつつ、陽明学の教え知行合一の精神で”国利民福”の信条をつらぬいた人である。』 高井鴻山記念館パンフレットより

参考にさせていただいた資料

最終更新 2012年 3月 8日

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