高井野の歴史>高井野
↓上空から見た高井野(昭和50年)
空中写真は「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」を元に作成
高井野の歴史は旧石器時代までさかのぼります。
旧石器時代末期から縄文時代初期にかけて人々が暮らした遺跡が、荒井原、八幡添(堀之内)、紫などから発掘されています。
縄文時代に入ると集落が形成された跡が荒井原、黒部、古赤和(赤和)、屋地(牧)などから発掘されています。
このほか、大宮北(久保〜荒井原)、大窪(久保)、谷地(赤和)、二ツ石前(二ツ石)などにも縄文時代と見られる遺跡がありますが、
縄文中期終末に気候が小寒冷期に入ると集落数や住居が激減し、人々の高井野における暮らしが衰退しています。
荒井原では縄文後期の中ごろまで狩猟や採取を主とする人々が暮らしていました。
弥生初期にしばらく途絶えた後、弥生中期の遺跡から、稲作に使われる道具が発掘されています。
←はじめて稲作が行われた地域(『会報高山史談』より)
稲作には湿地帯が適していることから、樽沢川(水中)と久保川(久保)の下流の小布毛(おふけ)地籍と中河原地籍が最初の開田地と考えられ、遺蹟が発掘されています。
現在の高山村荒井原から須坂市の本郷にかけての一帯に、古墳時代の遺跡があります。
千曲川に注ぐ松川の扇状地は「高井牧」と呼ばれる牧場地帯で、これらの古墳の被葬者は朝鮮半島系の渡来人で、牧場の経営に携わった人たちと推定されています。
県塚(荒井原)や新保塚(堀之内)、須坂市本郷の大塚古墳からは太刀や轡などの馬具が発掘されています。
信濃国北部の千曲川右岸一帯が高井郡であり、高井の郡名を冠していることから、当時の政治的中心地が「高井」で、郡役所が置かれていたと推定されます。
「高井村」
上高井郡開闢の地は高井村とす、健御名方神の御子高杜神の開拓統治に属し、その子孫或は縣主となり或は郡領となりて居を同村荒井原に占めたり、その処を今縣屋敷と曰う。
されば日本地理志料には「按古郡家高井村にあり郡名因って起る」とし、
信濃地名考は「郡の中央に高井野村あり、郡造に及びて一郡の名となれるなるべし」と記せり。
而して高位縣主の墳墓を縣塚と呼びて荒井原字大星にあり、大塚又男塚と称し直径約八間
←男塚(『高井郡古跡名勝絵図』)
天明中道路改修の為発掘したるに石棺現れ金環・玉類・古鈴等を出し勝山神官宅に保管す
←懸塚からの出土品(『写真が語る高井の歴史』)
高杜神はこれより南大宮の地に鎮座し延喜式たり。
『上高井歴史』より
持統8年(694年)に遷都された藤原宮(現・奈良県橿原市)の遺跡から、「高井郡大黄」「十五斤」と書かれた木簡が発掘されています。
これは、京の薬を扱う役所へ高井郡から薬草を送ったときの荷札と考えられています。
↑【典薬寮関係木簡と人形】昭和五十九年十月二日発行「藤原京−半世紀にわたる調査と研究」飛鳥資料館図録第13冊から転載
掲載許可元『奈良文化財研究所』(平成17年12月8日)
『これは「高井郡大黄」、裏に「十五斤」と書いてあります。 高井郡というのは今の下高井・上高井郡ですね。大黄というのは胃の薬です。
これが藤原京の典薬寮という薬を扱う役所へ送られた荷札なんです。 いらなくなると荷物だけ取ってこれをポイッと都の溝の中に捨てるわけです。
それが今発掘で出てきているわけです。』
市川健夫「第14回千曲塾」から
平安時代の延喜年間に編纂された「延喜式」には、左右馬寮管下の「信濃国十六牧」(勅旨牧)のひとつとして「高位牧(たかいのまき;位は井の当て字)」が記されています。
「勅旨牧」とは朝廷所有の牧という意味で、単なる放牧場ではなく、牧場を維持するための田畑・原野・集落を包含しており、現在の高山村高井地区一帯だったと考えられます。
中世に律令体制が崩壊して武士の時代になると、高井牧が次第に開発され高井野郷となりました。
鎌倉幕府の日誌「吾妻鏡」に、木曽義仲(1154年〜1184年)が木曽から松本平を経て北信に進出し、北陸道から京都に攻め上がった折りに、
義仲勢の武将の中に高井太郎という人物がいたと記されています。
この高井氏が「高井牧」を支配し、馬陰山(まかげやま、通称・城山)の麓に居館を構え、馬陰山に見張り小屋程度の山城を設けて一帯を支配していたと伝えられています。
今も馬陰山には空堀が残り、高井氏の邸跡には海福寺が建っています。
(「吾妻鏡」の高井氏は関東の武士だという説もあります。)
下諏訪町の諏訪大社下社にある長享2年(1488年)の『諏訪社下社春秋之宮造宮之次第』には、「高伊那」と記載されており、これが「高井野」だとされています。
この時代には、八木沢川沿いの「赤和」「新井原(現在の荒井原)」「堀之内」、久保川沿いの「久保」、樽沢川沿いの「水沢」と「中善」(現在の「水中」)及び下流の「千本松」の集落があり、高井野郷の中心は「堀之内」から高杜神社にかけてのあたりであったと考えられます。
↓上空から見た高井野の中心(昭和50年)
空中写真は「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」を元に作成
村内で一番早くできた集落といわれています。
古くは「古赤和」と「八木沢」の2集落があり、江戸時代には「古赤和」が「上赤和」、「八木沢」が「下赤和」となり、明治初年に合併して「赤和」となりました。
「赤」は誠、真を意味し、「和」は平和の和で、真に平和な部落にするという意味があるそうです。
”篠原”と”牧”姓が多く見られます。
赤和の鎮守には山神社が祀られ、祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)です。
大山祇命は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の子で、山をつかさどる神とされています。
上赤和の奥の山の中腹に赤和観音が建っており、文禄元年(1592年)、了誉上人によって岩穴に本堂が造られ、元禄5年(1702年)に再建されたと伝えられています。
木造の聖観音菩薩像は三代・亀原和太四郎嘉博が彫刻し、現本堂は四代・亀原和太四郎嘉照(九三郎)が改築しています。
←赤和観音堂としだれ桜
赤和観音のしだれ桜は高山村の5大桜の一つです。
古来は「新井原」だったものが明治初期に「荒井原」となりました。
「荒れ」は川(八木沢川、通称”やんしゃがわ”)が流れる場所、「原」は「北原」地籍の「原」を取ったといわれていますが、「あれる」は神様が生まれてくる、という説もあります。
元和7年(1622年)の検地帳には新井、新井北、新井南、新井原という地名が見られます。
”井浦””小出””そり町(そりは返の反が及)”といった姓が見られます。
新井原の鎮守として山神社が祀られ、祭神は大山祇命です。
陣屋の周りを壕が取り囲み、その壕の中にある集落を「堀之内」と呼び、昔から役所があったところとされています。
中世には、須田郷(現在の須坂市)一帯を支配していた須田氏の拠点がありました。
元和5年(1619年)、福島正則(1561年〜1624年)は安芸の広島から移ってきて堀之内に屋敷を構えました。
←福島城跡(『高井郡古跡名勝絵図』)
陣屋の周囲には有力農民が集まり、陣屋と密接な関係を持って他の組に君臨していたことから、 宝暦年代(1751〜1764年)の初めごろから約100年余りにわたって、堀之内の梨本両家と太田家、古志家(後に篠原家)の四家だけが村の年寄役に就任し、互選によって名主を勤めています。
堀之内の鎮守は八幡宮で、応仁天皇を主座とし、神功皇后と比売神または仲哀天皇が祀られ、弓矢の神として武人が崇拝したそうです。
久保には延喜式に記載されている高杜神社があり、高杜神社は鎌倉時代以前に創建されたと考えられることから、中世には久保の集落が成立していました。
高杜神社の裏には勝山があり、久保の半数が勝山姓で、勝山家の本家が高杜神社を勧請したと伝えられています。
かつては「水沢」「中善」「田端」「あがりっと」「河原」の5集落があり、明治5年(1873年)に合併して「水中」となりました。
樽沢川の豊富な水量に恵まれ、昔は多くの水車場がありました。
灰野峠(水中峠)を越えて三原街道や大笹街道に通じる道筋にあたり、「謙信道」のころから交通の要衝でした。
峠近くには大木戸という地名が残っていることから、月生城か雨引城の城郭に関連していると考えられています。
水沢の鎮守は八幡宮で、応仁天皇を主座とし、神功皇后と比売神または仲哀天皇の三神が祀られています。
源平の合戦に敗れた関東の平氏(藤原氏)の一族が逃れて移り住み、屋敷神として鹿島神を祀ったと伝えられています。
江戸時代中期の寛保2年(1742年)に水害があり、そのあと小淵一族が鹿島神社を祀りました。祭神は建御雷命(たけみかづちのみこと、武甕槌命とも)です。
その際に植えられた”しだれ桜”が、今では「水中の桜」として全国的に有名です。
小淵一族の言い伝えでは、何人もかかって桜の木を担いで運んだそうです。
←鹿島神社のしだれ桜
太古は水の中だったので「水中」になったというのは、単なる俗説のようです。
”小淵””小山””内山””柴田”姓が多く見られます。
いいつたえでは、昔、二つの山があり、その山に3年間長雨が降って土砂崩れが起こり、谷が埋まってしまいました。
やがてその土地に赤松が多く生えたので、その土地を「千本松」と呼ぶようになったのだそうです。
地形を見ると、久保と水中の集落は土石流の堆積した上にあり、その先端に「千本松」の集落があることから、実際に起きたことを伝えていると思われます。
数年前まで全戸が”中村”姓でした。
元和7年(1621年)の検地帳に「次郎右衛門」とあり、初代・治右衛門頼家のころから開発されたようです。
千本松の鎮守は高池社で、祭神は市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)です。
天照大神と須戔鳴尊(すさのおのみこと)が、天の安の河で誓約をおこなったときに生まれた女神で、天孫の守護と海上交通の神として崇拝されていたそうです。
江戸時代には高井野村となり、「二ツ石」と「紫」の集落ができています。
↑高井野村絵図(文化年間1804〜18)(『信州高山村誌』より)
昔、道端に大きな石があり、皆神様が祀ってありました。
反対側には一軒家があり、その家にも大きな石があって猿田彦が祀ってあったそうです。
この大きな二つの石を大切にしていたことから「二ツ石」と呼ばれるようになりました。
二ツ石の鎮守は諏訪社で、祭神は建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)です。
江戸時代以前は荒地で、「荒井原の村の先」ということで「村先」と呼ばれていました。
福島正則と息子の正利(1601年〜1638年)によって開墾されたと伝えられています。
明治の初めに「村先」から「紫」に変わりましたが、”あい玉”という紫色に近い染物の原料を古くから作っていたので「紫」になったという説もあります。
江戸時代に名主を務めた”久保田氏”は山田から移住してきたそうです。
紫の鎮守は正徳3年(1713年)に建立された神明社で、祭神は天照大御神と豊受大神です。
寛文2年(1662年)の屋敷反別帳に記載されている各組の屋敷数
組 | 屋敷数(軒) |
堀之内 | 40 |
久保 | 24 |
中善 | 10 |
水沢 | 21 |
千本松 | 10 |
新井原 | 44 |
赤和(後に上赤和と八木沢に分離) | 64 |
二ツ石 | 4 |
紫 | 13 |
大化(645年〜650年)の頃 | 国府領 |
延喜(901年から923年)の頃 | 左馬寮 |
椚原荘司 | |
治承4年(1180年) | 須田氏領 |
永禄2年(1559年) | 武田晴信領 |
天正10年(1582年)3月 | 森長可領 |
天正10年(1582年)6月 | 上杉景勝領 |
慶長3年(1598年) | 北信濃が豊臣秀吉の直轄地 高井郡は田丸直昌領 |
慶長5年(1600年) | 森忠政領 |
慶長8年(1603年) | 松平忠輝領 |
慶長15年(1610年) | 松平遠江守領 |
慶長18年(1613年) | 花井主所領 |
元和2年(1616年) | 徳川幕府領 高井野村堀之内に幕府代官・井上新左衛門が陣屋を構える |
元和5年(1619年) | 福島正則の支配地 高井野藩 |
寛永15年(1638年) | 幕府領 |
寛文元年(1661年) | 甲府藩領 |
元禄16年(1703年) | 幕府領 |
宝暦11年(1761年) | 石見浜田藩領(島根県) |
寛政 4年(1792年) | 浜田藩領(島根県) |
文政 6年(1823年) | 松代藩預かり所(天領) |
文政10年(1827年) | 浜田藩領富竹役所(長野市)の支配 |
天保 8年(1837年) | 幕府領 |
明治元年(1868年)1月 | 尾張取締所の支配 |
明治元年(1868年)8月 | 伊那県 |
明治3年(1870年) | 中野県 |
明治 4年(1871年) | 長野県管轄 |
高井野村は明治9年(1876年)に黒部村と合併して高井村となりました。
「高井」
高井は田居の義にして、軍防令に所謂荘舎これなりとし、又高座(い)の義にて高井村の地形より起こるとし、亦山の雫の田処という義なりとせり。
往古は高位村又高井村と称し、後誤て高井ノ村及高井野村と記せり、黒部村を合併するに際し旧に復し高井村とせり。
牧村は往古柞原村と称せしが、天正年間牧村と改めたり、天文年間牧伊賀守の居あり之に因む所と云い伝うるは誤りにて、高井牧の牧場の遺名なるべし。
明治9年高井野村・黒部村を合して高井村と称す、同22年高井・牧2村を合せ高井村と称す。
『上高井歴史』より
「高井村」
本村、故時、高位郷に属す。里俗伝に、高位邑たり。後、高井村、又高井乃村とも称せり。
本村古名高位にて、後高井乃と改めたる年歴詳かならざれども、居村の東北に在る牧場を、延喜馬寮式には高位牧と書載せられ、東鑑文治五年の條には、高井乃牧と書載せられたるを以て、位を井に改めたる事判然なり。
明治9丙子年、黒部村を本村は合併の際、旧名に復し高井村と改む。
『長野懸町村誌』より
東は上州吾妻郡門貝、干俣、大前の諸村と、高位山、破風ヶ嶽等の峯嶺を以て境し、西は同郡日瀧村と、石塚を以て界し、南は同郡園里村と、破風ヶ嶽の西峯より、月生山に至る迄の諸山嶺上を以て界し、
北は同郡奥山田村と、大位座山の北嶺を以て界し、同郡牧村と乙見山を以て境し、中山村と、松川の中央を以て界す。
『長野懸町村誌』より
黒部村は、上州草津温泉近くの小雨村から移住してできた村だと伝えられています。
明治の初めに廃寺になった大日寺の「大日如来霊験記」には、黒部の先祖について記載されていました。
源頼朝が平氏打倒の挙兵に先立ち、上野国(こうずけのくに)小雨の砕田宗吉に案内させ、善光寺にきた。 一行が途中、道に迷って難渋したとき金色の光を放って大日如来があらわれた。一行は、その導きによって、ようやく大日寺にたどりつくことができた。 頼朝は善光寺に向かったが、宗吉は大日如来を守って黒部に残った。 この宗吉が黒部の人びとの先祖だという。
また、同行した宗吉の弟が、中山田村の坪井に住み着いたとしている。『信州高山村誌』
初めに住みついたとされるところには十二宮(じょんのみや)が祀られ、ここにあるエドヒガンザクラの古木は「黒部の桜」として有名で、江戸時代初期の絵図に、すでに大樹として描かれています。
←十二宮の桜
各戸で農耕馬を飼っており、その馬を黒部馬と呼んでいたので「黒部」と呼ぶようになったといわれています。
明治9年(1876年)に高井野村と合併しました。
”湯本”姓が多い地区です。
江戸時代には水神の大竜権現をを氏神としていましたが、明治初年の神仏分離でなくなり、以降は皇大神社を祀っています。
明治初期に描かれた【高井村図】には、村を取り囲む山名は高杜山(紫祢萩山)、諸岩山、明覚山が描かれているだけで、村域が上信国境まで及ぶとする『長野懸町村誌』の記述とは異なっています。
←【高井村図】長野県立歴史館蔵、掲載許可者:長野県立歴史館(平成24年3月7日)
(クリックすると拡大表示します)
「高位牧」が「牧村」の村名の起源と考えられています。
←高位牧古趾(『高井郡古跡名勝絵図』)
江戸時代中期にまとめられた『牧村根元記』によると、大永元年(1521年)に牧村の設立が始められたとあります。
当初は、鞠子(まりこ)、上科ノ木、下科ノ木、杉沢平、本郷の5箇所に散在していたものが、やがて今の場所に集まりました。
特に鞠子は、昔、上州から移ってきて最初に定住したと伝えられ、水源があり、水田の跡も見られます。
”黒岩””山嵜””滝澤””藤澤””牧”姓が多く、黒岩氏は上州・嬬恋から移住してきたと伝えられています。
牧村には村社の子安神社があり、祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)で、子授け、安産、子育ての神として村人の信仰を集めています。
東は上野國吾妻郡干俣村と、破風嶽、御飯ヶ嶽、黒湯山、満山、白根山等の連峯を以て堺し、
西は本郡高井村と、樋沢川の中央を以て堺し、南は本郡園里村と、鞠子山、小倉山、雨池山、床名前山等の連峯を以て界し、北は本郡奥山田村、中山村と、松川の中央を以て堺す。
『長野懸町村誌』より
明治初期に制作された【牧村(絵図)】では、奥山田村との境を松川とし、群馬県との境を池ノ塔山、乳山、白根山、満山(万座山)、黒湯山、御飯嶽(御飯岳)、破風嶽まで、園里村との境が破風岳から床名前山、雨池山、小倉山、鞠子までと、『長野懸町村誌』の記述とほぼ同じに描かれています。
←【牧村(絵図)】長野県立歴史館蔵、掲載許可者:長野県立歴史館(平成24年3月7日)
(クリックすると拡大表示します)
牧村は明治22年(1889年)に高井村と合併しました。
作詞:浅井洌(「信濃の国」の作詞者)
昭和31年に高井村と山田村が合併して新しい村が誕生し、村名は双方から一文字を取って高山村となりました。
これによって、1,300年以上に渡って使われてきた「高井」が村名から消え、今は郡名の一部と大字名にだけ残っています。
市町村合併が進むと、長野県上高井郡高山村大字高井○○番地という住所の「高井」は完全に消えてしまうかもしれません。
最終更新 2022年11月16日